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第2次ウィーン包囲 : ミニ英和和英辞書
第2次ウィーン包囲[だい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [だい]
 (n,pref) ordinal
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
包囲 : [ほうい]
  1. (n,vs) siege 2. encirclement 3. envelopment 

第2次ウィーン包囲 ( リダイレクト:第二次ウィーン包囲 ) : ウィキペディア日本語版
第二次ウィーン包囲[だいにじうぃーんほうい]

第二次ウィーン包囲(だいにじウィーンほうい)は、1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランドヴェネツィアロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年カルロヴィッツ条約締結に至った。
== 戦争の背景 ==
オスマン帝国は、17世紀の初頭以来君主スルタン)の国政に対する実権が縮小し、16世紀から急速に進んだ軍事技術・制度の発展など様々な時代の変化の中で君主の専制と中央集権に支えられた軍事的優位が弛緩しつつあった。このような帝国の危機的状況の中、1656年に帝国の最高執政者である大宰相に就任した、息子で後継の大宰相となったキョプリュリュ・アフメト・パシャの2人は国勢の回復に努め、ヴェネツィア、オーストリア、ポーランドなどの諸国に次々に勝利して東ヨーロッパにおいてオスマン帝国史上最大の版図を実現していった。
1676年、キョプリュリュ・アフメト・パシャの病死により大宰相に就任したカラ・ムスタファ・パシャはキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿であり、キョプリュリュ家の改革政治を引き継いで拡大政策を押し進めた。時の君主であるメフメト4世エディルネの宮殿に篭って狩りを趣味とするばかりで政治に対する関心も実権もなく、オスマン帝国の全権はキョプリュリュ改革の遺産を引き継いだ強力な大宰相の手に握られていた。
一方、16世紀の第一次ウィーン包囲の時代においてヨーロッパにおけるオスマン帝国の最大の敵手であったハプスブルク家のオーストリアは、三十年戦争を経てかつての強盛を失った。当時のオーストリアにとって西方での宿敵はフランスルイ14世であったが、フランスはオーストリアがオスマン帝国と戦うことでハプスブルク家を弱体化させることを狙っていた。このため、オスマン帝国とオーストリアとの戦いにおいて、西からオーストリアを牽制することによってオスマン帝国に間接的な支援を与えていた。
戦場となったのはハンガリートランシルヴァニアで、1664年にオスマン帝国がハンガリーへ侵攻してきた時はオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリがでオスマン帝国軍に勝利した。しかし、フランスの脅威からオーストリアは反撃へ動けず、で20年の休戦、オスマン帝国の傀儡のトランシルヴァニア公アパフィ・ミハーイ1世を承認、毎年のオスマン帝国への贈与金などハプスブルク家に不利な内容を締結した。これがハンガリー・トランシルヴァニアの親ハプスブルク派貴族の反発を招き、1670年ヴェッシェレーニ陰謀の摘発と弾圧、1678年テケリ・イムレの蜂起に繋がった。
神聖ローマ皇帝レオポルト1世は事態を重く見てハンガリーに対する弾圧を中止、1681年絶対主義政策を撤回して貴族の宥和に勤めたが、テケリはゲリラ活動を続けた〔長谷川、P286 - P289、パーマー、P21 - P26、マッケイ、P13 - P16。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「第二次ウィーン包囲」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Vienna 」があります。




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