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栃剣 ( リダイレクト:栃剣展秀 ) : ウィキペディア日本語版
栃剣展秀[とちつるぎ のぶひで]
栃剣 展秀(とちつるぎ のぶひで、1955年昭和30年)4月26日- )は、愛知県名古屋市昭和区出身で、1970年代後半から1980年代にかけて活躍した大相撲力士である。現役時代は、春日野部屋に所属した。現役当時の体格は171cm、116kg。本名は平野 展秀(ひらの のぶひで)。最高位は西前頭2枚目(1983年11月場所・1984年3月場所)。得意技は突き、押し、蹴返し
== 来歴・人物 ==
小学校6年生の時に熱田神宮の少年相撲大会で優勝し、それを見た中京中学校相撲部の監督に見出されて1968年春、中京中学校へと進学した。小学校時代は野球に熱中していたが、「野球部は強豪校だからレギュラーに選ばれるのは大変だが、相撲部なら選ばれるかもしれない」と考えて相撲部に入ったという。
中京高校(現・中京大中京高校)でも相撲を続け、1973年には、国民体育大会の少年Aの部で個人優勝するなど活躍を見せた。
その頃、高校および同郷の先輩でもある春日野部屋付きの当時の清見潟親方(元前頭1・栃王山)に「大学へ行ったつもりで、4年間やってみろ」と勧誘され、卒業前に春日野部屋へと入門。同年11月場所に於いて、18歳で初土俵を踏んだ。
なお、同期の初土俵には、後の小結大豊がいる。当初の四股名は、本名でもある「平野」。
当時の身長は168cmで、新弟子検査の基準だった170cmに満たなかったが、なぜか172cmとして新弟子検査に合格した。〔日刊ゲンダイ2012年1月20日掲載〕
本人が語るに、数多くの大学からの勧誘により板挟みに苦しみ「どこの大学を選んでも、先輩達に恨まれる」と悩んでいたことも大相撲入りの動機となったという。
1978年昭和53年)7月場所にて、23歳で新十両に昇進。十両時代には、右アキレス腱を断裂してもなお休場せず、テーピングで足首を固めて出場を続けた経験を持っている。
十両昇進を機に四股名を「栃剣」と改めたものの、しばらくは十両と幕下との往復を繰り返した。しかし高校の後輩である栃司の急追に刺激され、1982年(昭和57年)3月場所にて、26歳で新入幕を果たした。
若手時代より、小兵ゆえの不利を「他の力士が5時に起きてくるなら、3時に起きて稽古した」、「序ノ口から廃業するまで、一日も稽古は休まなかった」と語られるほどの稽古熱心さで補った。その結果として、1987年(昭和62年)5月場所まで、計28場所幕内を務めた。
両手を着いての低い立ち合いから左右のおっつけや前褌を取っての出し投げの他足癖も用いるなど、土俵一杯に動き回る取り口で活躍したが、特に1985年(昭和60年)11月場所で体重が倍以上ある小錦を破った一番は場内を沸かせた。
引退後は年寄として協会に残る意向であったが、貯蓄の習慣を持たなかったことから年寄名跡を取得できずに終わり、西幕下18枚目に在位した1989年平成元年)3月場所を最後に33歳で廃業した。怪我に強く、序ノ口から廃業まで、1日も休むことなく土俵に上がり続けた。
以後は千葉市内で相撲料理店を経営したが、失敗してほどなく店を閉め、ゲーム喫茶に勤務していた1997年(平成9年)11月に賭博行為で逮捕された。
現在は愛知県春日井市内にある大島工作所に勤め、機械部品を県内の工場に配送する業務を行う傍らで、毎週日曜日に相撲教室で小学生達を指導している。本人曰く、指導内容は「ケガをしないように注意するだけ」とのこと。
ちばてつやの漫画、『のたり松太郎』に登場する力士・駒田中こと「田中 清」のモデルとされている。本人はこれに対して、「オレをモデルにしたって話は、ちば先生から直接聞いたよ。田中くんの気が弱いところは、オレと正反対だったけどね」と答えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「栃剣展秀」の詳細全文を読む




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