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加藤信 : ミニ英和和英辞書
加藤信[かとう しん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

加藤信 : ウィキペディア日本語版
加藤信[かとう しん]
加藤信(かとう しん、1891年明治24年)11月5日 - 1952年昭和27年)7月14日)は、囲碁棋士東京市出身、広瀬平治郎門下、方円社日本棋院棋正社に所属、八段。重厚な棋風から「黒甲将軍」と呼ばれた。第1期本因坊戦準優勝。
==経歴==

===方円社から日本棋院へ===
東京市芝区三田で7人兄弟の次男として生まれ、13歳の時に父の打つのを見て碁を覚える。その後めざましく上達し、父は専門棋士にしようと17歳の時に広瀬平治郎に入門させ、内弟子となる。18歳で方円社より初段を許され、21歳で二段、23歳で三段。当時広瀬の道場は大いに賑わっており、加藤も稽古にあたって多忙の中、萬朝報を始めとする新聞棋戦にも出場するようになる。
1916年(大正5年)に四段となった時に独立。1919年五段、1921年六段。1920年(大正9年)に広瀬が方円社長となってからは事務所の丸ビル移転計画に尽力し、1922年(大正11年)に広瀬が倒れると副社長格の岩佐銈とともに計画を引き継いで、翌1923年に本因坊派と合同による中央棋院を設立し丸ビル移転を果たす。中央棋院では会計を担当していたが、経営の窮状から資金の運用を巡って本因坊派と対立することになり、再度方円社と本因坊派の中央棋院に分裂。
1924年(大正13)年に碁界合同で日本棋院設立に参加するが、同年に脱退して棋正社に参加。しかし棋正社に行き詰まりが見えると、1926年に離脱して日本棋院に復帰。1931年(昭和6年)、大手合制度で初となる七段昇段。1932年に時事新報主催の三七段巴状戦に鈴木為次郎瀬越憲作とともに参加し、3勝1敗の成績で優勝。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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