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伊藤生更 : ミニ英和和英辞書
伊藤生更[いとう せいこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [せい, なま]
  1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed 

伊藤生更 : ウィキペディア日本語版
伊藤生更[いとう せいこう]

伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月28日 - 1972年(昭和47年)7月27日)は、アララギ派の歌人。短歌結社「美知思波(みちしば)」創立者。山梨県北巨摩郡(現・韮崎市)出身。本名は、伊藤基胤(もとつぐ)。妹の権藤はなよ(権藤花代)は、唱歌「たなばたさま」の作詞者で童謡詩人。
==人物==
山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に父・友重、母・やよの長男として生まれる。1906年(明治39年)山梨師範学校(現・山梨大学)を卒業。母校の穴山尋常高等小学校訓導、山梨師範学校附属小学校訓導を勤める。1908年(明治41年)に甲府市に転居。1913年(大正2年)には29歳の若さで山城尋常高等小学校校長となる。
1920年(大正9年)にはチフス罹患により入院した。生死をさ迷いながらも、一命をとりとめたことで人生観が大きく変わる。いったん静養生活に入ったが、1923年(大正12年)、山梨師範学校の嘱託教師として教壇に復帰する。在職中、教科書掲載の斎藤茂吉の歌に感銘を受け、短歌を作り始める。雅号の生更は、「甦る」という漢字の部首を分けたものである。1926年(大正15年)、短歌結社「アララギ」に入会。斎藤茂吉を生涯の師と定め、茂吉の教えを受けひたすら作歌に没頭した。(「アララギ」出詠 大正15年11月号~昭和19年10月号、昭和2年4月号から茂吉選による)
歌人として生きる決意を固めた生更は、1935年(昭和10年)、短歌結社「美知思波」(みちしば)を創刊・主宰する。機関誌「美知思波」の表紙見開きページには、四項目の「美知思波信条」が掲げられ、その最初には「万葉を宗とする歌道に生くる者のみの集ひとせむ。」と記されている。その信条は現在もなお引き継がれている。生更の短歌の特質は、自然詠が大部分であり、写生を貫いたが、表現は平明、素朴で温もりと強靭さがある(『生更短歌の鑑賞』中島雪子著)。
「美知思波」創刊30周年を迎えた時期には、会員数650名(『甲州の文学碑』奥山正典著)、会員は山梨県内はもとより近隣諸県に及び、東京にも支部が設けられた。ちなみに1964年(昭和39年)1月の新年歌会出席者は、140名だった。生更は山梨短歌界の草分け的存在であり、これほどの会員を擁する結社として発展したのは、飄逸として情の深い生更の人間的魅力に負うところが大きい。
1972年(昭和47年)、甲府の自宅にて88歳で他界した。教壇に立った経験のある生更は、後進の指導も行い、「美知思波」は多くの指導的歌人を輩出した。2014年(平成26年)、短歌雑誌「美知思波」は創刊80周年を迎えた。昭和10年から80年の長きにわたり発行された同人誌は、全国的にみても稀といえる。
生更の長男は、夭折の歌人伊藤健一で、短歌結社「みづがき」が中村美穂選『伊藤健一歌集』(昭和8年)を出版している。この歌集は、「みづがき」誌上に掲載された短歌を健一の友人、青木辰雄らが編んだものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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