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レヒニッツ写本 : ミニ英和和英辞書
レヒニッツ写本[れひにっつしゃほん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しゃ]
 【名詞】 1. photograph 2. copy 3. transcribe 4. duplicate 5. reproduce 6. trace 7. describe 8. picture 
写本 : [しゃほん]
 【名詞】 1. manuscript 2. written copy 3. codex
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

レヒニッツ写本 : ウィキペディア日本語版
レヒニッツ写本[れひにっつしゃほん]

レヒニッツ写本(レヒニッツしゃほん)は、未知の文字と書記体系で書かれた一連の文章。ハンガリーで発見されたことから正式名称は原義で「レヒニッツ市の写本」を意味するロホンツィ=コーデクス( )という。他にもハンガリー語の古い綴りを用いて ''Rohonczi Codex'' と表記されることもあり、こちらの綴りの方がヴィオリカ・エナキュクによる著書の影響かインターネット上では優勢であるが、この綴りは20世紀初頭に改変された現行のハンガリー語正書法では使われていない。
また、英語読みで「ローホンク写本」とも表記できるが、日本語ではまだ定訳がない。したがって、この項目では写本が発見された当時のハンガリー(ハプスブルク帝国)西部の都市ロホンツ(Rohonc)を現在の市名であるレヒニッツRechnitz)と読むことにする。

== 沿革 ==
少なくとも判明している限りでは、レヒニッツ写本の最初の所有者は、19世紀ハンガリーの貴族バッチャーニ・グスターフ伯爵である。バッチャーニ伯爵はこの写本を、他に伯爵が所有していた全ての蔵書と共にハンガリー科学アカデミーに寄贈した。この写本は、伯爵の蔵書が1838年まで置かれていたかつてのハンガリー西部(現在のオーストリアオーバーヴァルト郡)に位置する都市、レヒニッツ市にちなみ、レヒニッツ写本と呼ばれるようになった。
ただし、この写本の正確な起源は不明である。判明している最も古い記録は、バッチャーニ伯爵家による1743年の蔵書目録にあるとされる。この目録の登記によると、「ハンガリー語の祈祷文・12折り判本一巻」とある。この判の大きさや想定されるページ数に鑑みると、写本の特徴と一致する。しかし、目録内にはこの一節しかなく、あくまで推量の範囲を出ない。
写本は1840年頃、まずハンガリー人学者のトルディ・フェレンツによって研究され、その後フンファルヴィ・パール(Hunfalvy Pál)に引き継がれたが、何も判明しなかった。オーストリア人で古文学の専門家・マール博士によっても調査されたが、徒労に終わった。チェコのプラハで共に大学教授をしていたヨセフ・イレチェク(Josef Jireček)とコンスタンティン・ヨセフ・イレチェク(Konstantin Jireček)の父子は、1884年から1885年にかけて写本の32ページ分(写本自体は全体で448ページある)を調査したが、何の成果もあげられなかった。写本は1885年、インスブルック大学の教授であるドイツ人研究者、ベルンハルト・ユルク(Bernhard Jülg)のもとにも送られたが、やはり暗号を解くことはできなかった。次にハンガリーの高名な画家、ムンカーチ・ミハーイMunkácsy Mihály)が写本をパリに持って行き、1890年から1892年にかけて調査に取り組んだが、やはり何も判明しなかった。
ハンガリー人学者の多くは、この写本をトランシルヴァニア系ハンガリー人の古物商であるリテラーティ・ネメシュ・シャームエル(Literáti Nemes Sámuel)による悪ふざけの産物(捏造)とみなしている。ネメシュはハンガリー国立図書館の共同創設者の一人でもあるが、同時に歴史的な贋作(がんさく)作家としても悪名高い。当時高名だった一部の学者ですらネメシュに騙されたという。ネメシュ贋作説の起源は1866年、ハンガリー人歴史家のサボー・カーロイ(Szabó Károly)による主張にまで遡る。サボーの後にも、1878年のフェイェールパタキ・ラースロー()、1899年のトート・ベーラ()、1930年のピンテール・イェネー(Pintér Jenő)、1973年のチャポディ・チャバ(Csapodi Csaba)と、複数の研究家が恐らく贋作だろうとしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レヒニッツ写本」の詳細全文を読む




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