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レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン : ミニ英和和英辞書
レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン ( リダイレクト:レオポルド (オールバニ公) ) : ウィキペディア日本語版
レオポルド (オールバニ公)[ちょうおん]

レオポルド・ジョージ・ダンカン・アルバートLeopold George Duncan Albert, 1853年4月7日 バッキンガム宮殿 - 1884年3月28日 カンヌ)は、イギリスヴィクトリア女王と夫君アルバート王子の間の第8子、四男。アルバニー公、クラレンス伯およびアークロー男爵。両親の子孫のうちで最初の血友病患者として知られており、持病のために30歳の若さで世を去った。
== 生涯 ==
レオポルドの出産時、母女王はエディンバラ大学産科学教授ジェームズ・ヤング・シンプソンが提唱していた、クロロフォルム麻酔として使用して痛みを軽減する分娩法を支持することを示すため、クロロフォルムを使用した。クロロフォルムは博士により投与された〔''Queen Victoria: From her birth to the death of the Prince Consort'' by Cecil Woodham-Smith (New York: Alfred A Knopf, 1972) pgs. 333-334〕。生まれてまもなく血友病の診断が下され、注意深く育てられることになった。また軽度のてんかんも持病として抱えていた。
洗礼名は両親の叔父にあたるベルギー王レオポルド1世に因んでいる。洗礼式は1853年6月23日にバッキンガム宮殿内の王家の私的な礼拝堂において、カンタベリー大主教の司式で行われた。洗礼の代父母は従叔父のハノーファー王ゲオルク5世、プロイセンのアウグスタ王女、従叔母のテック公爵夫人メアリー、義理の伯父のホーエンローエ=ランゲンブルク侯エルンストの4人が務めた。
レオポルドは兄弟姉妹の中でも抜きんでて高い知的能力を示した。女王一家は桂冠詩人アルフレッド・テニスンやその友人の宗教哲学者と親しく交際したが、レオポルドは「マーティノー博士と頻繁に議論し、若い男性としては非凡な思考能力、高尚な志、そして信じがたいほど該博な知識を持つと評価されていた」。1872年にオックスフォード大学クライスト・チャーチ学寮に入学し、諸学を学んだ。王子はの部長も務めた。1876年に民法学の名誉博士号を受けて同大学を卒業した。
1880年、姉ルイーズ王女(夫のローン侯爵カナダ総督在任中だった)と一緒にカナダアメリカ合衆国を長期旅行している。レオポルドはチェス競技のパトロンとして知られ、の後援者だった。持病のため軍人としてのキャリアを断念させられたレオポルドは、文学や芸術の後援者として活動し、また母女王の非公式の秘書役として働いた。当時の新聞には「レオポルドは女王の愛息子であり、女王と政府の間の日程調整は彼によって管理されている」と評されている。レオポルドはカナダ総督またはオーストラリア総督の地位を望んだが、健康上の問題から諦めねばならなかった。
実際の軍務に就くことはできなかったが、ハイランド連隊の1隊の名誉職に就いており、1881年に第72連隊とを統合して編成されたのカーネル・イン・チーフに就任している〔Colonels-in-Chief listed at this article.〕(これら連隊の変遷についてはロイヤル・スコットランド連隊を参照)。シーフォース・ハイランダーズはレオポルドの葬送行進のパレードを行い、その様子はの叙事詩「レオポルド王子の死(The Death of Prince Leopold)」に描かれている〔here 〕。
またレオポルドはフリーメーソン会員としても熱心に活動した。クライスト・チャーチ学寮在学中にオックスフォードのアポロ・ユニバーシティ・ロッジに入会したが、これは同ロッジの名誉マスターだった長兄のウェールズ公アルバート・エドワードに勧誘されたことがきっかけである〔"Apollo University Lodge No 357, History 1819 - 1969", privately published 1969, page 19.〕〔"Apollo University Lodge No 357, History 1819 - 1969", privately published 1969, appendix page i.〕。友人で家庭教師のロバート・ホーソーン・コリンズ(obert Hawthorne Collins)と一緒に入会儀礼を行った〔"Apollo University Lodge No 357, History 1819 - 1969", privately published 1969, page 20.〕。レオポルドは1876年に同ロッジのマスターを務めた後、1877年よりオックスフォードシャー地区グランド・マスターを死ぬまで務めた〔The Oxfordshire Masonic Year Book, 2011-2012, (154th annual edition), privately published 2011, page 54.〕。
1881年5月24日にアルバニー公爵、クラレンス伯爵、アークロー男爵に叙爵された。出生時より「レオポルド王子殿下(''HRH The Prince Leopold'')と呼ばれていたが、叙爵以後は「アルバニー公殿下(''HRH The Duke of Albany'')」と呼ばれることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レオポルド (オールバニ公)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Prince Leopold, Duke of Albany 」があります。




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