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ベルギー軍 : ミニ英和和英辞書
ベルギー軍[ぐん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 

ベルギー軍 ( リダイレクト:ベルギーの軍事 ) : ウィキペディア日本語版
ベルギーの軍事[べるぎーのぐんじ]

この項目では、ベルギーの軍事について解説する。

== 歴史 ==
ベルギー独自の武装部隊は、1830年ベルギー独立革命時に端を発する。この革命において、十日戦争等でベルギーの武装勢力は大きな打撃を受けたものの、その後、フランス軍の支援を受け、戦争を継続する。最終的に1839年にヨーロッパ列強間で交渉が行われ、ロンドン条約によりネーデルラント連合王国からの独立と中立国としての立場が認められることとなった。
列強間で合意が持たれた中立国であるために、その中立性は良く守られ、普仏戦争などヨーロッパの戦争には参戦しておらず、侵攻も受けていない。
第一次世界大戦直前の頃においても、ベルギーは中立国として、隣接した大国であるフランスおよびドイツの双方に対応したものとなっていた。そのため、リエージュおよびナミュール付近には要塞群が構築されており、徴兵も含めた総兵員数は34万人〔図説・第一次世界大戦 上 P70 学習研究社 ISBN 978-4-05-605023-3〕に達していた。これらは野戦軍と要塞軍で編制されていた。この頃の防衛方針は要塞群により遅滞防御を図り、列強諸国の来援を待つというものであった。
当時カトリック国家だったベルギーには、新教国オランダとの対抗上、同じカトリックのフランスから軍事顧問や教官の派遣がなされていた。第一次大戦初頭、永世中立国ベルギー王国国境侵入予定時刻の12時間前、あらかじめドイツ帝国政府はベルギー王国政府へ最後通牒を発した。その内容はドイツはベルギーへ、国土侵入にともなって生じる損害の賠償をする、宣戦布告はしない。それとの引き換えに、ベルギーはドイツ軍へ無害(無抵抗)通行権を認めよ、というものであった(1914年8月2日)。しかしベルギー政府と国王アルベール1世はこれを拒否した。ドイツ政府はこれに対し再考を求めたものの再度拒否されたため、ベルギー政府へ宣戦布告し、ドイツ軍は8月4日ベルギーへ侵攻した。
シュリーフェン計画では、ベルギー南西部とルクセンブルク南部およびドイツ領ラインラントに接する、フランス国境内にあった重厚なフランス軍要塞地帯を、ドイツ軍は避け、ドイツ国内で発達した鉄道網を用いて北西に回り、ベルギー北東部から侵入してフランス北東部低地平野をめざす。フランス北東部低地平野はパリが近く、古くからフランスの「急所」と言われていた(篠田英雄訳岩波版クラウゼヴィッツ『戦争論』“Vom Kriege”下巻p386、原書初版は1832年から1834年にかけ出版)。そしてパリ防衛に出たフランス軍主力を包囲し、会戦で早期に殲滅するとしていた。
だがベルギーは最後通牒受諾を拒否し、このため両国は相互に宣戦布告した。国土に侵攻した優勢なドイツ軍に敗れたベルギー正規軍は、国内の橋や鉄道および電信線などを破壊した。このためドイツ軍は第一次大戦初頭では、輸送は馬匹に頼らざるを得なくなった。市街地の家屋やビルに狙撃兵を配置し頑強に抗戦するベルギー軍小部隊を、ドイツ軍は個々に撃破しなければならず、時間を浪費した。このことがフランス軍に防衛上の余裕を与えた。シュリーフェン計画上、パリの早期陥落のため、フランス北東部低地平野でのマルヌ会戦(1914年9月)で、ドイツ軍は必ず勝利しなければならなかった。だが勝利できず、シュリーフェン計画は膠着化した。
多大な国富の損害と多数の死傷者を出しながらも徹底抗戦したのが、ベルギーの特色であった。ベルギー占領軍の軍政長官は、ドイツ帝国陸軍コルマール・フォン・デア・ゴルツ元帥が就任した。開戦初頭、ベルギー軍はリエージュ要塞などで抵抗しドイツ軍の進撃を妨害した。間もなくドイツ軍主力はリエージュ要塞を突破し、ブリュッセルを含むベルギー中部はドイツ軍の支配下となった。ベルギー軍主力はブリュッセル北方、オランダ寄りのアントウェルペン方面に撤退したが、イギリス軍およびフランス軍が来援、8月23日モンスの戦いが行われた。マルヌの戦いの後、9月下旬にドイツ軍は延翼運動・海への競争を開始し、アントウェルペンへの攻勢を強めた。アントウェルペン要塞にはベルギー軍6個師団がいたが、アルベール1世が脱出させ、ベルギー北西部のフランデレン地方に到達、連合軍の戦線の延長部に陣地を構築した。ベルギー軍は第一次世界大戦中、狭隘だが国土の北西領域を防衛し続けた。ドイツ軍へのベルギー軍の本格的反攻は1918年のこととなる。ほかにベルギー領コンゴの植民地軍もドイツ領東アフリカを攻撃した。
大戦後にアルベール1世が死去すると、ベルギーの政策は中立主義に回帰した。独仏両国に対する備えを行っていたものの、第一次世界大戦の経験より主に対ドイツ向けの防備となっていた。この頃のベルギー軍は有事の総兵力は65万人〔西部戦線全史 P191 学研M文庫 山崎雅弘 ISBN 978-4-05-901215-3〕となっていた。1939年9月の第二次世界大戦勃発以降も英仏との防衛協議は行われておらず、まやかし戦争の期間中も中立を維持していた。1940年5月10日にドイツ軍の西方攻勢が開始されると、エバン・エマール要塞は突破され、来援した英仏軍もドイツ軍の迅速な進撃と電撃戦の戦術、協議不足による共同作戦の不調により撃破された。国王レオポルド3世は5月28日に降伏を宣言した。レオポルド3世は国内に留まったものの、ベルギー政府の一部は亡命政府を結成し、またベルギー領コンゴの植民地軍と国外在住のベルギー人などにより自由ベルギー軍が結成された。ベルギー本国は1944年に連合軍により解放されている。
第二次世界大戦後は中立政策を放棄し、集団安全保障政策を基とするようになる。1948年にドイツの再軍備に備えて、ブリュッセル条約が締結された。これにはベルギーのほか、イギリス、フランス、オランダルクセンブルクが加盟している。1949年には冷戦の激化により、ソ連を仮想敵としアメリカ合衆国も加わった北大西洋条約が締結された。ベルギーもこれにより北大西洋条約機構(NATO)の一員となり、西ドイツ防衛兵力の提供を行っていた。NATO本部もブリュッセルに置かれた。
1960年コンゴ共和国の独立に伴うコンゴ動乱に際してはベルギー軍が派遣されている。
このほか、国家憲兵としてベルギー国家憲兵隊が編成されていたが、これは2001年1月に連邦警察と地方警察に整理・改編されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ベルギーの軍事」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Belgian Armed Forces 」があります。




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