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プレステ・ジョアン : ミニ英和和英辞書
プレステ・ジョアン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


プレステ・ジョアン ( リダイレクト:プレスター・ジョン ) : ウィキペディア日本語版
プレスター・ジョン

プレスター・ジョン (、、、プレステ・ジョアン
とは、アジア、あるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する〔『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、587頁〕。
== 伝説の起源 ==
1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた〔ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、4頁〕。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている〔ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、4-5頁〕。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる〔。
12世紀ドイツで記された、オットー・フォン・フライズィング年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている〔藤枝「プレスター・ジョン」『アジア歴史事典』8巻、180頁〕〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、104頁〕〔堀川「プレスター・ジョン伝説」『中央ユーラシアを知る事典』、461-462頁〕〔『東方の驚異』(池上俊一訳)、149頁〕。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した〔弥永『幻想の東洋』、181頁〕。ペルシアアルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記している〔〔。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれ、チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている〔〔『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、588頁〕。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製のを用いているという伝聞を付記している〔弥永『幻想の東洋』、182頁〕。
オットーが記録した報告は、東方に伝わっていたネストリウス派がウイグルの一部で信仰されていた点〔、西遼(カラ・キタイ)の皇帝・耶律大石がイスラム教国に勝利を収めたこと〔〔〔ラーナー『マルコ・ポーロと世界の発見』、12頁〕〔『東方の驚異』(池上俊一訳)、150頁〕などに起因すると考えられている。オットーの年代記に現れるペルシアの王サミアルドスは、1141年カトワーンの戦いで耶律大石に敗れたセルジューク朝の王アフマド・サンジャルに比定される〔井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁〕。西遼の支配層である契丹人の時代に仏教徒に改宗しており、12世紀初頭に耶律大石に率いられて中央アジアに移住した一団も仏教信仰を保持していたが、ヨーロッパに誤ってキリスト教徒と伝えられたと考えられている〔。しかし、耶律大石自身は仏教を信仰していたが、彼の軍内にはネストリウス派の信者が含まれていた可能性も指摘されている〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、105頁〕。
プレスター・ジョンの戦果の報告の後に書かれたオットーの情報には、聖トマスのインドでの布教を述べた『聖トマス行伝』に現れるインド王グンダファル(Gundaphara)からの影響が指摘されている〔弥永『幻想の東洋』、176-183頁〕。ほか、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がオットーの記述のモデルとなった人物の一人に挙げられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Prester John 」があります。




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