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フロンテナック砦の戦い : ミニ英和和英辞書
フロンテナック砦の戦い[-とりでのたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とりで]
 (n) fortress
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

フロンテナック砦の戦い : ウィキペディア日本語版
フロンテナック砦の戦い[-とりでのたたかい]

フロンテナック砦の戦い(-とりでのたたかい、英 Battle of Fort Frontenac、仏 Bataille de Fort Frontenac)は、フレンチ・インディアン戦争中の、1758年8月26日から8月28日にかけて、フランスイギリスの間で行われた戦闘である。この戦闘の舞台となったフロントテック砦は、フランスの砦であり、毛皮交易の交易所でもあった。オンタリオ湖セントローレンス川の接点に位置しており、イギリス軍の中佐ジョン・ブラッドストリートに攻略された。交易所の中には、80万リーブルの価値のある物資が残されていた。
==概要==

===イギリスの作戦===
1758年のイギリス軍の軍事作戦には、3つの主な目的があった。うち1つの目的である、ルイブール砦の攻略は成功していた。デュケーヌ砦は、11月末に、イギリス軍が結果として占領することができた〔英語版記事では、3つの戦闘の時系列に不明な点があるので、この記事では、11月のデュケーヌ砦の占領が最後に来ることを明記し、多少表現を変えている。〕。もう1つは、7月8日に行われたカリヨンの戦いであったが、この戦いでは、将軍ジェームズ・アバークロンビー指揮下の1万6千の兵を含む遠征隊が、カリヨン砦(現在のタイコンデロガ砦)の攻略を目論んだものの、人数ではるかに劣るフランス軍に完敗した。この敗北を受けて、アバークロンビーの「手下」たちは、責任逃れの道を模索した。〔Fowler, p. 153〕
イギリス軍中佐ジョン・ブラッドストリートは、フロンテナック砦の攻略を早めに行うよう何度も要請した。この砦は、フランスの交易所であり、オンタリオ湖の北岸にあって、湖水がセントローレンス川に注ぎ込む場所にあった。アバークロンビーは真っ先にその提案に反対した、カリヨンの攻撃に戦力が必要だからというのがその理由であったが、ブラッドストリートの、モホーク川を上ってオスウィーゴ砦に行き、しかる後にオンタリオ湖を渡って、フロンテナック砦を襲撃する方法には賛成した。〔
ブラッドストリートは、スケネクタディで兵を集め、わずか135人の正規兵と、ニューヨークマサチューセッツ湾ニュージャージーロードアイランドの各植民地の3,500人の民兵とで軍を構成した。8月21日にオスウィーゴの砦跡に着くまでに、600人の兵が脱走した。この道は、フランス軍やインディアン同盟軍の襲撃を受ける可能性は低かったが、2年間ほど実質的に使われていない道で、樹木が生い茂り、水路は一部が沈泥でふさがっていて、荷物を積んだバトーが、川底が浅いため地面に乗り上げてしまった。〔Fowler, p. 154〕ブラッドフォードのバトーによる小艦隊は、オンタリオ湖を横切り、敵の攻撃を受けることなく、フロンテナック砦から1マイル(1.6キロ)の地点で上陸した。〔
フロンテナック砦は、インディアンや、フランスの毛皮交易者には重要な交易所だった。ここを通しての交易はかなり繁盛していて、一部のインディアンたちは、オールバニーの、廉価でイギリスの商品が多数手に入る交易所よりも、フランス人との交易の方を好んでいた。〔Smollet, Vol. IV, Ch. IX, pg. 402, sect. VIII.〕この、崩れかけた石灰岩の砦には、最低限の人数の駐屯部隊しかいなかった。100人のフランス人正規兵に、民兵とインディアンが何人かで、指揮を執っているのは、ジョージ王戦争を経験した、老練なピエール=ジャック・パイアン・ド・ノイアン・エ・ド・シャヴォイだった。砦は本来、もっと多くの人数で守られるものだが、最低限の人数しか置かないと言うことは、ヌーベルフランスの防御に人員が割かれるため、カナダの他の場所を守る人数が、有無を言わさずに削減されているということだった。ノイアンは、インディアンの斥候が、イギリス兵を何人か捕虜にしたことで、ブラッドストリートの遠征隊が近づいていることを知り、神経をとがらせた。また、モントリオールの当局も、補強部隊の編成を行っていたが、イギリス軍の到着には間に合いそうにもなかった。〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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