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チャールズ・サンダース・ピアス : ミニ英和和英辞書
チャールズ・サンダース・ピアス[だーす]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ダース : [だーす]
 【名詞】 1. dozen 2. (n) dozen

チャールズ・サンダース・ピアス ( リダイレクト:チャールズ・サンダース・パース ) : ウィキペディア日本語版
チャールズ・サンダース・パース[だーす]

チャールズ・サンダース・パース〔「パース」"Peirce"は、チャールズ・サンダース・パースの場合、ちょうど英単語の「purse」のように発音される。()。"Note on the Pronunciation of 'Peirce'", The ''Peirce Project Newsletter'', Vol. 1, Nos. 3/4, Dec. 1994, Eプリント を参照。〕(、1839年9月10日 - 1914年4月19日)は、アメリカ論理学者数学者科学者哲学者マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。パースは化学者としての教育を受け、米国沿岸測量局に約三十年間、科学者として雇われていた。現在では主に論理学、数学、哲学、記号論、およびプラグマティズムを創始したことで高い評価を受けている。「アメリカの哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる〔哲学者ポール・ワイスの発言。Weiss, Paul (1934), "Peirce, Charles Sanders" in the ''Dictionary of American Biography''. Arisbe Eプリント .〕。存命中はおおむね無視されつづけ、第二次世界大戦後まで二次文献はわずかしかなかった。莫大な遺稿の全ては今も公表されていない。パースは自分をまず論理学者とみなし、さらに論理学を記号論(semiotics)の一分野とみなした。1886年、彼は論理演算電子的スイッチング回路によって実行されうると考えたが、これと同じ考えが数十年後、デジタルコンピュータを製造するために使われた。
== 生涯 ==
清教徒の移民であったジョン・パースの子孫であり、当時アメリカ最大の数学者と見なされたハーバード大学数学教授ベンジャミン・パースの次男として生まれる。早くから父に才能を見いだされ、特別の教育を受ける。なぞなぞ・トランプの手品・チェス・暗号を好み、8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与され、1869年〜70年度には、エマスン、キャボット、フィスクなどの年長者とならんでハーバード大学の哲学講演に参加した。
1859年に米国沿岸測量局に就職したのを皮切りに、1891年まで断続的に測量の仕事を続けた。1869年から1875年まで、ハーバード大学天文台の助手として測光に従事した。光の波長を測量の規準単位として用いるやり方は、パースが始めたものである。1875年にアメリカの最初の代表として国際測地学協会に出席し、振り子による実験が精密ではないことを指摘し、各国の学者に注目されている。
1867年アメリカ芸術科学アカデミーでパースは、すでに1847年ブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダー『論理の代数についての講義』に引き継がれ、さらにラッセルホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。
1887年以後、ペンシルベニア州のミルフォードに隠棲し、さまざまな事典や雑誌への寄稿と新刊書評によって生計を立てた。『ネイション(''The Nation'')』誌のための新刊書評を担当していたときは、莫大な数の書物を読みこなしては毎日2000語ずつ書いたと言われている。これらの仕事は、エジプト学犯罪学言語学心理学数学力学天文学化学測量社会学歴史文芸評論神学伝記に及ぶ。
パースの興味は常に哲学に向いていたのだが、それを本職にすることはかなわなかった。その狷介不羈な性格によるともいわれるが、今ひとつの理由は、1883年にかれが引き起こした離婚問題が清教徒道徳の根強かったマサチューセッツ州で嫌われたということである。当時のハーバード大学学長のチャールズ・ウィリアム・エリオット〔在任、1869-1909〕は、パースを校内のいかなる場所にも立ち入らせなかった。このように冷遇されたことはパースの発表機会や性格を損ね、いっそう難解にしたとも考えられる。パースは中年以後まったく窮乏状態で過ごした。長い年月を持病に苦しめられつつ、死後20年たたないと学者たちから理解されないような学説を書き続けたのである。
パースは全生涯にわたって当時「顔面神経痛」(facial neuralgia)として知られていた病気で苦しみつづけた〔この病気は激しい痛みをともなう神経または顔面の疾患である。彼の疾患は、現在なら三叉神経痛(trigeminal neuralgia)と診断されるだろう。〕。その痛みで苦しんでいるとき「パースは、まずほとんど呆然となり、ついで冷淡、冷酷になり、落ち込み、極端に疑い深くなり、ちょっと反対されることが我慢できなくなり、そして暴力的に激昂しがちになった。」という〔ブレント「パース伝記」〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャールズ・サンダース・パース」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Charles Sanders Peirce 」があります。




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