翻訳と辞書
Words near each other
・ アッバーシン・スタジアム
・ アッバーシーン・スタジアム
・ アッバース
・ アッバース1世
・ アッバース2世
・ アッバース3世
・ アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ
・ アッバース・イブン・フィルナス
・ アッバース・サード
・ アッバース・パシャ
アッバース・ヒルミー
・ アッバース・ヒルミー2世
・ アッバース家
・ アッバース朝
・ アッバース朝革命
・ アッバース革命
・ アッバード朝
・ アッパガイ
・ アッパッパ
・ アッパッパー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アッバース・ヒルミー : ミニ英和和英辞書
アッバース・ヒルミー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アッバース・ヒルミー ( リダイレクト:アッバース・パシャ ) : ウィキペディア日本語版
アッバース・パシャ[ちょうおん]

アッバース・パシャまたはアッバース・ヒルミー1世Abbas Hilmi I, 1813年7月1日1854年7月16日)は、ムハンマド・アリー朝エジプトのエジプト総督(ワーリー, 在位1848年 - 1854年)。
==生涯==
1813年、ムハンマド・アリーの孫、アフマド・トゥーソンの息子としてジッダに生まれ、幼くして父を亡くしたため祖父母のもとで育った。祖父による英才教育を受けたがついていけず、軍事的な経験を積むために叔父のイブラーヒーム・パシャのもとに送られたが、ここでも使い物にならず帰国させられた。
1848年に即位すると反動政策を取り、それまでの閣僚や外国人専門家を解任したほか、近代化改革を目指した諸機関を廃止した。一方で、イギリスからの申し出を受け入れて、カイロアレクサンドリアを結ぶ鉄道の敷設を認めたが、これはイギリスとインドを結ぶルートを整備しようとするイギリスの世界戦略に沿ったものであった。クリミア戦争ではオスマン帝国側で参戦し、エジプト・トルコ戦争などで悪化していた両国の関係を改善させた。
私生活では、遠隔地の離宮にこもりがちで悪い噂が絶えず、生前・後世の評判を一層悪いものにした。1854年、ナイル川デルタ地帯の宮殿の一室で何者かに絞殺された。公式には脳卒中と発表されたが、実際の殺害に至る経緯は不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アッバース・パシャ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Abbas I of Egypt 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.