翻訳と辞書
Words near each other
・ 黒崎バイパス
・ 黒崎バスセンター
・ 黒崎リコ
・ 黒崎レイナ
・ 黒崎一心
・ 黒崎一護
・ 黒崎中学校
・ 黒崎久志
・ 黒崎佐吉
・ 黒崎修斎
黒崎健時
・ 黒崎優
・ 黒崎出入口
・ 黒崎出版
・ 黒崎勲
・ 黒崎北ランプ
・ 黒崎半島 (福井県)
・ 黒崎卓
・ 黒崎博
・ 黒崎夏梨


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

黒崎健時 : ミニ英和和英辞書
黒崎健時[くろさき けんじ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くろ]
 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [けん]
 【名詞】 1. health 2. strength 3. stick-to-itiveness 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

黒崎健時 : ウィキペディア日本語版
黒崎健時[くろさき けんじ]

黒崎 健時(くろさき けんじ、1930年3月15日 - )は、日本武道家空手家。別名は黒崎 明もしくは名前の読みが(たけとき)。
キックボクシング目白ジム新格闘術・黒崎道場、黒崎総合格闘技スクールを主宰。
自ら限界に挑戦した事、弟子への指導も限界を見極めさせようとした指導をした事から、鬼の黒崎と呼ばれた。
== 来歴 ==
栃木県下都賀郡桑村出身。当初は国士舘大学の一期生である福田久一郎に剣道を習っていたが、その後、革新系皇道派思想の佐郷屋留雄に預けられ、師事していた時に、佐郷屋の紹介で大山倍達の門下生となった〔「奇才・黒崎健時を読む!」『ゴング格闘技日本スポーツ出版社、No.35、1996年、6-63頁。〕。
その後、大山が池袋大山道場を開設後、石橋雅史安田英治と共に師範代を担う。大山茂渡辺一久岡田博文・春山一郎・大山泰彦千葉真一郷田勇三中村忠加藤重夫藤平昭雄芦原英幸盧山初雄山崎照朝らを指導した。
1958年(昭和33年)には大山道場の師範代を兼務しながら、当時国内唯一の支部であった成増道場を開設し、及川宏などの門下生を育成する。
1963年(昭和38年)春に大山道場は、野口修からムエタイとの対抗戦を持ちかけられる。大山は黒崎を監督、メンバーに当時「極真四天王」と云われた、岡田博文・大山泰彦・中村忠・藤平昭雄を選出した。黒崎ら5名は、8月から鬼怒川で1か月間合宿を行い、10月のタイ遠征に備えた。しかし遠征は12月に延期され、更に1964年(昭和39年)の1月に再延期された事から、岡田と泰彦は遠征を辞退する。
1964年(昭和39年)2月、黒崎は中村と藤平を引率してタイに遠征。当初、黒崎は試合に出る予定はなかったが、「2人じゃ少ないから」という理由で出場を打診され、急遽参戦する。ルンピニー・スタジアムで行われ、ムエタイランカーのラウィーとムエタイルールで対戦。不慣れなグローブ着用や調整不足も影響し、ラウィーの肘打ちを顔面に浴び敗れた。その代わり、中村と藤平はKO勝ちして、空手とムエタイの異種格闘技戦は、かろうじて2勝1敗で勝ち越しした。
同年4月に大山道場が財団法人極真奨学会を冠し、国際空手道連盟 極真会館に刷新された。同年6月、東京都豊島区西池袋に本部道場が竣工。なお、建設には資金援助をしてくれた人たちの他、「黒崎師範の貢献がとても大きい」と中村は証言している〔『月刊フルコンタクトKARATE別冊-大山倍達と極真の強者たち』 福昌堂1995年、57頁。〕。
1966年(昭和41年)に後に極真会館ヨーロッパ地区初代委員長となったジョン・ブルミンの招聘でオランダに11か月滞在し、指導を行った。教わった門下生にはヤン・カレンバッハルック・ホランダーなどがいた。
1969年(昭和44年)3月に極真会館を去り、目白ジムを設立。キックボクシングの世界に入り、全日本キックボクシング協会に加盟。大沢昇・藤原敏男島三雄岡尾国光斎藤京二らを育て上げる。
1978年(昭和53年)に藤原がラジャダムナンのタイトルを獲得して、黒崎念願の外国人初のムエタイ王者を輩出した。その後、日本格闘術連盟を設立し、全日本キックボクシング協会から離脱し、新格闘術・黒崎道場を発足。独立後は新格闘術として独自興業を打つ。新団体を立ち挙げた理由として、当時日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング協会の2団体が存在していたが、双方とも旧態依然たる体質で、人気下降ぎみのキックボクシングになんら手立てもしていなかった。また当時は積極的に他団体や異種格闘技と交流する時代でもなかった。黒崎は全日本キックボクシング協会の枠組みに囚われず、当時台頭してきたWKAPKAといったアメリカンプロカラテや〔当時でいう狭義な意味のマーシャルアーツ、今でいうアメリカンキックボクシングの事である。〕、ムエタイなど異種格闘技とのマッチメイクを積極的に組んでいた。
他にも単発的に独自にタイからランカークラスの選手を招聘して、日本武道館でムエタイの試合を開催したり、所属連盟に囚われないキックボクシングのオープントーナメントなども開く。ウィリー・ウィリアムスアントニオ猪木戦のプロモートにも梶原一騎と共に携わった。梶原一騎が製作した一連のドキュメンタリー格闘技映画にも出演している。
2002年(平成14年)から2003年(平成15年)までK-1ファイターの小比類巻太信が黒崎道場に所属。黒崎総合格闘技スクールでは競輪など、格闘技以外のスポーツ選手の体力増強の指導もしていた。劇画『空手バカ一代』、『四角いジャングル』にも実名で登場し、描かれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「黒崎健時」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.