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鮮卑族 : ミニ英和和英辞書
鮮卑族
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


鮮卑族 ( リダイレクト:鮮卑 ) : ウィキペディア日本語版
鮮卑[せんぴ]

鮮卑(せんぴ、:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族五胡十六国時代南北朝時代には南下して中国北魏などの王朝を建てた。
== 歴史 ==

=== 檀石槐登場前 ===
代の初め、匈奴冒頓単于東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏丸山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸と鮮卑になった。鮮卑はしばらく匈奴のもとにいたが、匈奴が南北に分かれその力が衰えてくると、勢力を盛り返すようになった。
建武30年(54年)、鮮卑の大人(たいじん:部族長)の於仇賁(おきゅうほん)は部族民を引き連れて都洛陽に上って朝貢をし、光武帝から王に封じられる。
永平年間に、祭(さいゆう)が遼東太守となると、鮮卑に誘いをかけ賂を送って、漢の命令に従わない烏丸の欽志賁(きんしほん)らの首を取らせた。
永元6年(94年)、鮮卑大都護の校尉(そばつかい)は、部族民を率いて護烏丸校尉任尚(じんしょう)に従い、南匈奴の反抗者たちを討伐した。その功により、朝廷は蘇拔を率衆王に封じた。
殤帝延平元年(106年)、鮮卑は東への移動を始め、長城の中に入って漁陽太守の張顕を殺した。
安帝の時代、鮮卑の大人の燕茘陽(えんれいよう)が入朝した。朝廷は彼に鮮卑王の印綬を授けた。これ以後、鮮卑は、あるときは反抗し、あるときは降伏し、あるときは匈奴や烏丸と争った。
安帝の末年、国境地帯から歩兵と騎兵2万余りを徴用して、要害の地に駐屯配備させた。のちに鮮卑の8000-9000の騎馬兵は代郡と馬城の砦を破って侵入し、郡県の主立った役人たちを殺害した。朝廷は度遼将軍の(とうじゅん)を派遣して、長城を出て追撃させ、これを打ち破った。鮮卑の大人烏倫(うりん)、(きしけん)ら7000余人が遵のもとに降伏を申し入れてきた。そこで朝廷は烏倫を王に封じ、其至には侯の位を与えた。遵が去ったあと、其至はまたもや叛き、護烏丸校尉を馬城に包囲した。度遼将軍の(こうき)と幽州刺史とが救援に赴き、包囲を崩した。其至はこれ以後ますますその勢力を盛んにし、長城の内部に侵入して、五原郡の曼柏(まんはく)に向かい、匈奴の南単于に攻撃をかけ、(さいくけんじつちくおう)を殺した。
順帝の時代、再び長城の内部に侵入し、代郡の太守を殺した。朝廷は長城付近に軍を駐屯させ、南単于も1万余人を率い、漢の軍を援助して鮮卑に攻撃を加え、これをしりぞけた。こののち、護烏丸校尉の耿曄(こうよう)は、烏丸大人で都尉の(じゅうまつかい)を率いて長城を出ると鮮卑に攻撃をくわえ、鮮卑の中の首領格の者たちを多く斬った。その結果、鮮卑の3万余落は、遼東郡の役所に降服を申し入れてきた。
〔『三国志』鮮卑伝(王沈『魏書』)より。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Xianbei 」があります。




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