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高阪 剛(こうさか つよし、1970年3月6日 - )は、日本の男性総合格闘家、プロレスラー。滋賀県草津市出身。ALLIANCE-SQUARE主宰。柔道四段。元スーパーヘビー級キング・オブ・パンクラシスト。 マウントポジションを取られた状態から脱出する技「TKシザース」の開発者として知られる。 先祖は戦国武将の高坂昌信〔高坂弾正の末裔登場!? 元格闘家の高阪剛、登場! 天地人公式サイト トピックス 「戦友が語るTKと過ごした日々。」『ゴング格闘技』No.170、2006年7月号、日本スポーツ出版社、p.104〕。実兄はプロのジャズドラマー・テルシファー高阪(高阪照雄)。 == 来歴 == 幼い頃は兄弟でプロレスごっこをしてよく遊んでおり、常に兄達に勝つ事ばかり考えていた。そんな事がきっかけになり、中学生の頃に柔道を始める。正強高等学校(現・奈良大学附属高等学校)、専修大学(プロレスリング・ノアの秋山準は同級生で友人)、東レと柔道部に所属。柔道をバックボーンにリングスに入団。同期には坂田亘がいる。 1994年8月20日、鶴巻伸洋戦でデビュー。 1995年10月13日、ザ・トーナメント・オブ・J '95に出場し、優勝を果たした。 1996年1月24日、リングスでモーリス・スミスにギブアップ勝ち。 1997年10月11日、アメリカ合衆国で開催されたグラップリング大会「The Contenders」でトム・エリクソンに判定負け。 1998年にはアメリカに拠点を移し、モーリス・スミスらとトレーニングを行う。同年3月13日、UFC 16でキモに判定勝ち。同年10月16日、UFC Brazilでピート・ウィリアムスに判定勝ち。 1999年1月9日、UFC 18で元パンクラスのバス・ルッテンと対戦。TKO負けしたものの「世界のTK」の名を世界の格闘技ファンに轟かせた。その後、リングスでギルバート・アイブルに2回に及ぶ敗退、11月のUFC-Jではペドロ・ヒーゾにTKO負けと精彩を欠いた。 2000年7月15日、アメリカで開催されたリングスUSA RISING-STARS A Blockを勝ち抜き、決勝大会への切符を手に入れたが、9月30日の決勝大会は欠場した。 2000年12月22日、KING OF KINGS 2000の1回戦でイリューヒン・ミーシャにKO勝ち。2回戦でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。高阪が放ったフックでカット・出血によりドクターストップ勝ち。ただし、ヒョードルは反則の肘打ちでのカットだと強く主張。 2001年2月24日、KING OF KINGS 2000決勝トーナメントの準々決勝では当時UFC世界ヘビー級王者だったランディ・クートゥアと対戦し、判定負け。敗れはしたものの高い評価を得た。 リングス活動停止後はUFC、アブダビコンバット、DEEP、新日本プロレス(アルティメット・クラッシュ)などで活躍。リコ・ロドリゲス、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ、ファブリシオ・ヴェウドゥムなどの世界の強豪とも対戦をしている。2003年5月2日、新日本プロレスのリングでドルゴルスレン・スミヤバザル(朝青龍の実兄)にTKO勝ち。 2004年2月4日、U-STYLE 1周年興行で田村潔司と対戦し、15分51秒腕ひしぎ十字固めで一本負け〔U-STYLE 一周年記念大会 スポーツナビ〕。 2004年11月7日、初代スーパーヘビー級(+100kg)キング・オブ・パンクラス決定戦でロン・ウォーターマンと対戦し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した。 2005年4月3日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の六-でヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと再戦し、TKO負けを喫した。 新日本プロレスでは総合格闘技ルールの試合だけではなくプロレスも経験しており、2002年10月14日に新日本プロレス初参戦。NWFトーナメント1回戦で安田忠夫に勝利するも〔新日本プロレス30周年記念 THE SPIRAL 第4試合 スポーツナビ〕、2003年1月4日の決勝で高山善廣に敗れた〔WRESTLING WORLD 2003 第10試合 スポーツナビ〕。2005年3月26日の永田裕志戦では胴締めスリーパーで勝利するも、「試合に勝って勝負に負けた」と納得のいかない高阪が再戦を要求(高阪はこの試合で膝を壊され、PRIDEでのヒョードル戦に影響が出てしまった)〔新日本プロレス「NEXESS」 第8試合 スポーツナビ〕。5月14日の再戦では、永田にバックドロップホールドを決められ、リベンジを許してしまう〔新日本プロレス「NEXESS」 第5試合 スポーツナビ〕。 2006年2月26日、PRIDE.31でマリオ・スペーヒーと対戦し、パンチラッシュでKO勝ち。試合後のリング上で、同年5月開催の無差別級トーナメントを最後に引退することを宣言。この日は自身の子供の出産予定日でもあった〔[PRIDE.31] 2.26 埼玉:ショーグン&ハリトーノフ敗れる BoutReview 2006年2月27日〕。 2006年5月5日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦では、マーク・ハントと真っ向から殴り合った末にTKO負けを喫したが、ハントのパンチでフラフラになりながらも前に出続けた。敗北したことでこの試合が現役最後の試合となった。試合後に控え室を訪れたジョシュ・バーネットが、高阪の引退を想い号泣した。 指導者としても名高く、モーリス・スミス、フランク・シャムロック、吉田秀彦(学生柔道時代からの友人、髙阪が早生まれのため、同級にあたる)などを指導した。また、実況者としても起用が多く、実況席における明晰な解説ぶりも高い評価を受けている。2015年ラグビーワールドカップでの日本代表の歴史的勝利に貢献したことでも知られている。 2015年12月29日、9年7か月ぶりの復帰戦となったRIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSでジェームス・トンプソンと対戦。1Rから圧倒し、2Rにラッシュを浴びせてTKO勝利。復帰戦を勝利で飾った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高阪剛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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