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馬場こちょう : ミニ英和和英辞書
馬場こちょう[ばば]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
馬場 : [ばば]
 【名詞】 1. horse-riding ground 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

馬場こちょう ( リダイレクト:馬場孤蝶 ) : ウィキペディア日本語版
馬場孤蝶[ばば こちょう]

馬場孤蝶(ばば こちょう、1869年12月10日明治2年11月8日) - 1940年昭和15年)6月22日)は、英文学者評論家翻訳家詩人慶應義塾大学教授。
== 生涯 ==
孤蝶は土佐藩士馬場来八の四男として、土佐郡(現・高知市)に生まれた。本名は『勝弥』といい、19歳上の次兄に自由民権運動家の馬場辰猪がいる。病弱で就学せずに、1978年両親と上京し、下谷茅町(現・台東区池之端二丁目)の忍ヶ丘小学校から三菱商業学校に進んで中退し、1884年から、共立学校で英語を学んだ。少年期から寄席に入り浸った〔『昔の寄席』ほか、(『明治の東京』所収)〕。浄瑠璃を語った。弓術盆栽将棋・パイプ・俳画・古書漁り・旅行と、趣味が広かった。
1889年(明治22年)(20歳)、明治学院2年に入学し、島崎藤村戸川秋骨と同級になった。1891年卒業後、各地で中学の英語教師を勤め、その間の1893年1月創刊の文学界に、秋から加わり、詩、小説、随筆を載せた。1894年3月、樋口一葉宅を初めて訪れ、また、斎藤緑雨、秋骨、平田禿木上田敏と交わった。皆、文学界の同人だった。
1899年、銀子をめとり、のち、照子・晴子・昂太郎を得た。
1897年(明治30年)(28歳)、日本銀行の文書課員となり、かたわら文学界へ、それの廃刊後は明星へ、投稿を続けた。1906年1月、第二次『芸苑』の発行名義人となり、17冊を出した。生田長江が同人として兄事した。
1906年、慶應義塾大学文学部教授となって、欧州大陸文学を講じた。孤蝶は永井荷風教授の先任に当たる。教授になった頃から詩・小説からは遠ざかり、翻訳、随筆をもっぱらにした。
1907年(明治40年)(38歳)、生田長江の『閨秀文学会』の講師を引き受けた。1908年、樋口一葉の日記を校正した〔『日記を通して見たる樋口一葉』、早稲田文学誌(1911.4)」→ 「筑摩書房 明治文学全集30(1972)」所収〕。1912年、3回目の『樋口一葉全集』(博文館の『二冊本』)を編集した。1913年、青鞜社の講演会で『婦人のために』を講演し、また、大杉栄荒畑寒村らの『近代思想』社の集会に顔を出した〔「近代思想」における大杉栄の批判の実践性について」p.160 〕。
1915年の衆議院議員選挙に、夏目漱石、生田長江、森田草平平塚らいてう堺利彦らの応援を得て立候補し、落選した。その翌年の山川均青山菊栄の結婚の媒酌を勤めた。面倒見がよかった。
1923年、関東大震災の際の流言による朝鮮人虐殺事件の起こる最中に、朝鮮人を擁護する発言をしたことで人々に包囲され、ついには警察に検束された。
1930年(昭和5年)(61歳)、慶應義塾大学を退職した。孤蝶の教え子に、水木京太、佐藤春夫西脇順三郎などがいた。
1940年(71歳)、肝臓癌腹膜炎を併発し、渋谷区松濤の自宅で没した。墓は谷中霊園にある。孤蝶の遺志により、随筆集『明治の東京』と『明治文壇の人々』が、1942年に出版された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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