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阿武激浪庵 : ミニ英和和英辞書
阿武激浪庵[いおり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

激浪 : [げきろう]
 (n) raging sea
: [いおり]
 【名詞】 1. hermitage 2. retreat 

阿武激浪庵 ( リダイレクト:阿武天風 ) : ウィキペディア日本語版
阿武天風[あぶ てんぷう]

阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年明治15年)9月8日 - 1928年昭和3年)6月22日)は日本軍人小説家編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。
本名は阿武 信一(あんの しんいち)。別名義に「髭の少尉」、「虎髯大尉」(こぜんたいい)、「阿武激浪庵」、「怒濤庵少尉」、「黒面中尉」、「黒面魔人」などがある。ただし、これら別名義に関しては、河岡潮風など阿武の周囲の人物が用いていた場合もあり、これらの名義で執筆された文章の全てが阿武のものであるというわけではない〔。
==経歴==
山口県阿武郡三見村(現・萩市)出身。1901年(明治34年)、萩中学校(現・山口県立萩高等学校)を卒業し、海軍兵学校32期)に入学。3年間の訓練ののちに少尉となり、千代田扶桑などの乗組員として日露戦争に参加する。1906年(明治39年)2月、左足を負傷したことから退職。
このころから文筆で生計を立てようと考えるようになり、冒険小説家の押川春浪と友人になったこともあって、押川が主筆を務める雑誌『冒険世界』(博文館)で小説や翻案を発表するようになる。天風というペンネームを使うようになったのは1908年(明治41年)からで、これはいくつかの案の中から押川がクジ引きで決めたものであった。
1911年(明治44年)、押川が「野球害毒論」に関して博文館上層部と対立してこれを退社し、新たな雑誌『武侠世界』を創刊することになったため、『冒険世界』の主筆となる。この時、押川や阿武の所属していた社交団体「天狗倶楽部」のメンバーにはこれが阿武の裏切りに映ったため非難を浴びたが、後に和解した〔。『冒険世界』の主筆は1917年大正6年)まで務めたが、この年、追い出される形で博文館を退社。『武侠世界』へ移籍する〔。
1918年(大正7年)、『武侠世界』の特派員としてシベリアへ渡っている〔。この頃の阿武については、その後ハルビンで新聞『西伯利新聞』を発行していたことが判明している程度で、詳細なことは分かっていない〔。
帰国後、1926年(大正15年)から『少年倶楽部』で日米未来戦争小説である『太陽は勝てり』の連載を開始したが、翌1927年(昭和2年)、病気のためこれを中断。そのまま回復することなく、翌1928年(昭和3年)6月22日に死去〔。45歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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