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鈴井貴之 : ミニ英和和英辞書
鈴井貴之[すずい たかゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すず]
 【名詞】 1. bell 
: [い]
 【名詞】 1. well 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

鈴井貴之 : ウィキペディア日本語版
鈴井貴之[すずい たかゆき]

鈴井 貴之(すずい たかゆき 1962年5月6日 - )は、北海道を中心に活動するタレント映画監督放送作家である。株式会社CREATIVE OFFICE CUEの取締役会長、株式会社 キュー・プロダクツの取締役会長、有限会社 マンホールフィルム取締役会長。愛称はミスター。妻はCREATIVE OFFICE CUE社長の鈴井亜由美
 

== 経歴 ==
北海道赤平市出身。血液型O型。親は教師。幼少期は病弱で入退院を繰り返す日々を送る。小さい頃から8ミリカメラで映画を撮るのが好きであった。北海道長沼高等学校を経て、北海学園大学法学部に入学。しかしそこで演劇に出会い、酒と演劇に溺れ大学を中退。
その後「ノーティキッズ」、「劇団487パラシュート」などいくつかの劇団を立ち上げた後、「劇団OOPARTS(1990年旗揚げ、1998年完全消滅(解散ではないらしい))」を主宰。当時300人収容の札幌本多小劇場や倉庫などの芝居小屋が当たり前だった札幌演劇界の中、700人収容の道新ホールなど大ホールで公演。地元北海道では「1000人の客を集められる男」として演劇界にその名を知られた。
1991年秋に札幌本多小劇場で行った初の一人芝居「LUNA-CY」では、ガラスを割ったり高所からの落下、エキストラに殴られるなどの過激なシーンが乱発。自らの体に保険をかけたほどの意欲作。楽日にはガラスで手を負傷、終演後血の滲む包帯姿で観客のお見送りをし、その後病院へ直行した。
なお、この頃劇団と並行してすすきのバーを経営したりもしていたが、経営状態は思わしくなかったようで、劇団の公演で発生する赤字も含めた借金が膨れ上がり、恐ろしいほどの極貧生活を送っていたという〔。
1992年、役者が芝居に集中できる環境を作るためにCREATIVE OFFICE CUEを設立、代表取締役社長に就任する。当初は鈴井だけであった所属タレントも年を経るごとに増え、現在では自らを含めた10人のタレントと3組のアーティストが所属する事務所となった。
演劇活動、芸能事務所経営と並行して、在札局のテレビ・ラジオ番組の出演・企画・構成を手掛け、AIR-G'では、夕方の帯番組「GO・I・S」を9年余り担当。その後、彼を北海道内で有名にしたのは、自ら企画し、所属俳優の大泉洋、当時HTBアナウンサーであった森田政仁などと共に出演した北海道テレビ放送(HTB)制作の深夜番組モザイクな夜」である。
そして、全国的人気を獲得することになるきっかけとなったのが出演・企画・構成をした「水曜どうでしょう」である。北海道以外でもその内容が話題になり、道内での本放送が終了した後も、テレビ朝日系列を中心とした地方局や関東関西UHF局で放送され、DVDによる販売では記録的な大ヒットとなっている。
かねてから映画を撮る夢を持っており、2001年には初映画監督作品『man-hole』を公開。第10回あきた十文字映画祭で北の十文字賞、第15回福岡アジア国際映画祭2001で審査員特別賞を受賞する。また、ベルリン国際映画祭正式出品作品、金鶏百花映画祭2002公式招待上映作品と海外でも上映された。その後も『river』、『銀のエンゼル』を製作、国内外の映画祭に次々と出品している。
2005年、韓国への映画留学のため芸能活動を中断。これに伴いGO・I・Sの後継番組であったKING GO・I・Sは終了し、ぽっぷこ〜んシネマ音尾琢真に譲る形で降板、1年間タレントとしての活動を休止した。韓国ではカク・キョンテク監督の映画『タイフーン』に参加。10か月もの間プロデューサー待遇でロケ現場、編集など製作現場のほぼ全てに参加し映画制作に携わる。
帰国後の第一号作「リーディングドラマ第一章“DIARY〜失ったガラスの靴を探して…”』の作・演出として約10年振りに本格的に舞台演出家としての活動を始めた。舞台役者としては98年のOOPARTS消滅を以って引退していたが、「CUE DREAM JAM-BOREE 2006」では、プロデューサーたる大泉の策略によって同イベント限定ではあるが8年ぶりに舞台復帰した。また、AIR-G'のHOME&AWAYでレギュラー番組が復活し、本格的に芸能活動を再開させる。アルバイト北海道のCMをプロデュースしたり、JTB北海道のイメージキャラクターに起用されるなど、留学前とはまた違った活躍をしている。
北海道以外からタレントとしてのオファーがあり、2006年3月にはエフエム青森の特別番組のメインパーソナリティーとして出演。同じく2006年10月より、Date FM(FM仙台)をキー局とした東北6県ブロックネットで『北風小僧』(土曜20:00 - 20:55)が放送されていた。
2008年、監督第四作『銀色の雨』を制作した。本作は鈴井にとって初の原作物(浅田次郎の同名短編小説)であり、これまで地元での撮影にこだわってきた鈴井が、初めて道外(鳥取県米子市)を舞台とする映画を制作した。
2009年、ドキュメント番組にて劇団OOPARTS再結成を宣言した。2010年10月にはプロジェクト第一弾として舞台公演『CUT』の上演を行った。
2012年8月1日よりCREATIVE OFFICE CUEの会長に就任することが「CUE DREAM JAM-BOREE 2012」にて発表された。
2015年6月、北海道新幹線の開業PRイメージキャラクターに任命され、同年10月、北海道新幹線特任車掌に任命される〔鈴井貴之さん「特任車掌」 GLAYがBGM 新幹線PR動画

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「鈴井貴之」の詳細全文を読む




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