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鄭芝溶 : ミニ英和和英辞書
鄭芝溶[ちょん じよん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しば]
 【名詞】 1. lawn 2. sod 3. turf 

鄭芝溶 : ウィキペディア日本語版
鄭芝溶[ちょん じよん]

鄭芝溶(チョン・ジヨン、1902年陰暦5月15日 - 1950年9月25日)は朝鮮詩人1930年代を代表する詩人であり、同世代と後輩達に大きな影響を与えた。鄭の詩は異国情緒、伝統的郷土情緒、そしてカトリックに依拠する宗教性の3つの傾向を持つ。

== 略歴 ==

1902年陰暦5月15日、忠清北道沃川郡沃川面下桂里40番地に生まれる。父は延日鄭氏の鄭泰国、母は河東鄭氏の鄭美河の間の1人息子である。家は、父の鄭泰国が薬局を経営していて裕福であったが、ある年に洪水に見舞われ、生活が傾いていく。幼い頃は池龍と呼ばれた。1913年、恩津宋氏の宋在淑と結婚する。
1918年徽文高等普通学校に入学する。この頃から詩の創作活動を始め、この年の12月、『曙光』創刊号に小説「三人」を発表した。学業の成績は非常によく、一年のときは首席であった。この時期、金崋山朴八陽朴済瓉らと共に、同人誌『搖籃』を発刊している。1922年、徽文高等普通学校を卒業し、父の友人である柳宓永宅で生活する。1923年、徽文義塾派らで作る「文友会」の学芸部長を務め、機関紙『徽文』創刊号の編集委員長もこなした。その才能が認められ、徽文義塾の校費で日本に留学することになり、1923年に京都同志社大学英文科に入学した。留学中も詩の創作を続け、日本語でも『近代風景』に「悲しき印象画」「早春の朝」「鴨川」などを発表し、北原白秋からも高い評価を受けた。
1929年、同志社大学を卒業すると、帰国し、家族を連れて、ソウルに移る。そして母校の徽文高等普通学校で英語教師として職を得た。また、1930年朴龍喆金永郎異河潤らと『詩文学』の同人になり、詩文壇で次々と作品を発表していく。1933年には、李泰俊柳致真金起林李箱朴泰遠らと「九人会」に参加する。『カトリック青年』『詩と小説』『京郷雑誌』『文章』の編集を担当し、文学活動を支えた。
1945年、解放を迎えると、長年務めていた徽文学校を辞任し、梨花女子専門学校の文科科長に就任、韓国語ラテン語を教授した。1946年に、梨花女子専門学校教授職を辞任し、京郷新聞の主幹を務めるが、1年後に、また梨花女子大学校の教授に復職する。ソウル大学校の文理科大学講師も務めたこともある。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると、政治保衛部に拘束され、鄭仁沢金起林朴英熙らと共に西大門刑務所に収容される。その後、平壌監獄に移監されたが、詳しい詳細は分からない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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