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那須藩 : ウィキペディア日本語版
那須藩[なすはん]
那須藩(なすはん)は、下野国那須郡内(現在の栃木県大田原市福原)に存在した
== 藩史 ==
那須氏は弓の名手・那須与一で有名な名族である。ところが戦国時代も終焉の天正18年(1590年)、当主の那須資晴豊臣秀吉小田原征伐に対して参陣しなかったため、那須氏は改易となった。しかし那須氏の重臣であった大田原晴清は主家の断絶を惜しみ、秀吉に陳謝したため、特別な計らいで資晴の子・資景に5000石が与えられた。資晴もその後、秀吉から罪を許されて5000石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、資景は家康に対して人質を差し出すことで東軍に与し、結城秀康とともに上杉景勝の南下に備え、江戸城も守備した功績から、慶長7年(1602年)までに3000石余りを加増され約8000石になり、一方で資晴も慶長7年(1602年)に家康の御伽衆に取り立てられ1000石を加増され6000石を領した。資晴は慶長15年(1610年)に死去し、後を資景が継いだ。資景は父の遺領と併せて1万4000石を領することとなり、大名として諸侯に列し、ここに那須藩を立藩した。資景は大坂の陣や日光祭礼奉行として功績を挙げ、寛永元年(1624年)に子の資重に家督を譲って隠居した。だが、資重は寛永19年(1642年)、父に先立って死去、しかも嗣子がなかったため、那須氏の所領1万4000石は幕府に没収となり那須藩は廃藩となった。しかし、那須の家名が絶えることを惜しんだ幕府によって隠居していた資景に5000石が与えられて旗本として存続した。
慶安元年(1648年)、無嗣断絶とされた信濃国小諸藩松平憲良の弟康尚が名跡の継承を許されて1万石で入り、那須藩が再立藩された。翌慶安2年(1649年)、康尚は伊勢国長島藩へ移封となり、那須藩は再び廃藩となった。
旗本となった那須氏の家中では資景の後継ぎをめぐって50人組と20人組が争った結果、50人組が擁する資祗増山正利の弟)が後を継ぐこととなった。寛文4年(1664年)、資祗は1万2000石の大名として諸侯に列することとなったため、那須藩を再び立藩した。ちなみに第4代将軍・徳川家綱の母・宝樹院は資祗の姉に当たったため、資祗は権勢を振るい天和元年(1681年)、8000石加増の上で烏山藩への復帰を許され、ここに那須藩は廃藩となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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