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西田税 : ミニ英和和英辞書
西田税[にしだ みつぎ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

西田税 : ウィキペディア日本語版
西田税[にしだ みつぎ]

西田 税(にしだ みつぎ、明治34年(1901年10月3日 - 昭和12年(1937年8月19日)は、日本陸軍軍人思想家
鳥取県米子市博労町出身。啓成小・米子中(現在の米子東高)2年を経て大正4年(1915年広島陸軍地方幼年学校に入学、大正7年(1918年首席で卒業。大正9年(1920年陸軍中央幼年学校卒業。大正11年(1922年陸軍士官学校卒業。陸軍騎兵少尉に任官。大正14年(1925年)病気のため予備役
日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、昭和11年(1936年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌昭和12年(1937年)、北とともに刑死した。
== 経歴 ==
明治34年(1901年)10月3日、鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。
大正3年(1914年)3月啓成尋常小学校卒業。4月米子中学校(現在の米子東高校)入学〔中学校には二年生の一学期までのわずかな期間しか在学していない。同級生たちの回想によると、啓成小学校でも、米子中学校でも、親友とよべる友人は一人もいなかったという。西田の少年時代は孤独であった(『西田税 二・二六への軌跡』36頁)〕
大正4年(1915年)9月広島陸軍地方幼年学校入学。大正7年(1918年)7月広島陸軍地方幼年学校を首席で卒業〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』15頁〕。9月陸軍中央幼年学校入学〔。10月福永憲を知る〔。
大正8年(1919年)4月武断党と闘う〔。10月宮本進、三好達治、片山茂生、平野勣を知る〔。宮本を通じ、西岡元三郎を知り、西岡から黒竜会の機関誌『亜細亜時論』の編集者長崎武を紹介される〔。黒龍会本部を訪れる〔。玄洋社の総帥頭山満の門をたたく〔。
大正9年(1920年
3月陸軍中央幼年学校を卒業(成績250名中12番)〔。福永、三好と共に朝鮮行きを志願〔。4月士官候補生として朝鮮羅南騎兵第二十七連隊付〔。日蓮立正安国論を愛誦す〔。10月陸軍士官学校入学〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』16頁〕。急進派の同志宮本進、三好達治、片山茂生、福永憲等と新たな結束を誓う〔。帝大教授鹿子木員信の紹介で、印度独立の志士ラス・ビハリ・ボースと交遊〔。
大正10年(1921年)9月青年亜細亜同盟を結成、長崎武に援助を乞う〔。大正11年(1922年)4月宮本、片山に付き添われ猶存社北一輝と会見〔。 5月帰郷中、山陰日日新聞に「純正日本の建設」を発表〔。6月北一輝著「日本改造法案大綱」及び朝日平吾手記「斬奸状」を校内で印刷配布〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』17頁〕。秩父宮改称の奉祝宴に於いて、宮より杯を賜る〔。7月陸軍士官学校卒業(第34期、騎兵科30名中12番)〔。猶存社に北一輝を訪ねる〔。10月陸軍騎兵少尉正八位に叙せらる〔。
大正13年(1924年)2月父死去〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』18頁〕。3月西田家の家督相続届出〔。6月広島転任の命を拝す〔。大川周明安岡正篤との交遊始まる〔。
大正14年(1925年)3月秩父宮来陰〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』19頁〕。夜、松江の御旅舎に伺候〔。宮の特別列車に乗車〔。侍官随員を退けて進言する〔。〔この汽車には松江までお出迎えした鳥取県知事白上佑吉西伯郡長真野庄太郎、米子町長西尾常彦らが同乗していた。西田と米子中学校(現在の米子東高校)で同期だった福島哲は「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し町中の大評判になったものだ。今とちがって、天子さまの第二皇子といえば、それこそ雲の上の人、町長署長でも緊張してコチコチに固くなっていたものだ。それを町の名もない仏具屋の小倅(こせがれ)にすぎない西田が、殿下とさしで話していたというのだから、町の評判にならぬ筈がない。西田の奴、大したもんだ。陸軍大将間違いなしだというので同級生は、わが事のように喜んだのを記憶している。それが間もなく軍人を止めたという噂に、またまたびっくりしたものだ」と述べている(『西田税 二・二六への軌跡』113頁)〕。5月病気(肋膜炎)を理由として、依願予備役となる〔。9月米子町議会議員選挙が行われた。この選挙に際し、税は野田雪哉を片腕として町政革新総同盟を結成。選挙の結果、同志八名が当選した。
大正15年(1926年)2月代々木山谷に一戸を構える〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』29頁〕。8月未決監入り〔。
昭和2年(1927年)2月保釈出所〔。7月天剣党運動を開始〔。
昭和3年(1928年)民間右翼と接触を深める〔。
昭和4年(1929年)3月、不戦条約御托准秦請反対同盟に参加〔。国民戦線社に参加〔。5月信州国民党結成〔。同年11月、信州国民党解散、日本国民党結成、統制委員長となる〔。
昭和7年(1932年)1月、衆院選挙で鳥取市出身の由谷義治代議士を応援〔。2月に血盟団事件〔。5月15日、西田は血盟団川崎長光から裏切り者として銃撃され〔、出血多量で瀕死の重傷を負う〔西田を看護する北一輝の献身ぶりは肉身以上のものであり、わが命に替えても西田の一命を救いたいとの思いが詰めかけている陸軍の青年将校に伝わり、それが一層西田派の連繋を強固なものにしていった(『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料 33頁』)。〕。
昭和10年(1935年)12月に相沢事件を起こした陸軍青年将校相沢三郎の公判を支援〔。新聞「大眼目」を発行、国体明徴と粛軍と維新は三位一体であると強調し、相沢中佐の一挙は陸軍内部の毒虫を誅罰した快挙であると主張〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料 31頁』〕。相沢事件の前日、相沢は西田の千駄ヶ谷の家に泊まっていた。
昭和11年(1936年)2月、二・二六事件〔の直前に磯部浅一らによる決起の意思を妻を通して聞かされ、「今までは反対してきたが、もう止められない、黙認する。軍人だけにやらせる」と発言〔『戒厳指令「通信ヲ傍受セヨ」 二・二六事件秘録』でのはつ夫人のインタビューより〕。 3月角田猛男男爵邸で逮捕される〔『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵 西田税資料』34頁〕。〔青年将校のクーデターに対して、昭和天皇がひどくお怒りの様子であることを知り「国民の天皇」を持論としていた西田は悲痛な絶望感にとらわれた。「俺は殺されるとき、天皇陛下万歳は言わないで、黙って死ぬるよ」という税の言葉が、面会に行った姉・茂子につたえられている。(『米子市文化財資料集 山陰歴史館所蔵西田税資料 36頁』)〕
昭和12年(1937年8月19日銃殺刑に処せられる。享年36。墓は米子市法城寺。昭和61年(1986年)9月税を慰霊する五輪塔が法城寺に建立される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「西田税」の詳細全文を読む




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