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蘇軾 : ウィキペディア日本語版
蘇軾[そ しょく]

蘇 軾(そ しょく、景祐3年12月19日1037年1月8日) - 建中靖国元年7月28日1101年8月24日))は、中国北宋代の政治家詩人書家東坡居士したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。子瞻(しせん)。蘇洵の長子、弟は蘇轍であり、この3人に韓愈柳宗元欧陽脩曽鞏王安石を加えた8人を「古文」の唐宋八大家という〔興膳(2008年)182ページ〕。子に蘇邁、蘇迨、蘇過、蘇遯ら。曾孫は蘇公弼威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材夫人(蘇公弼の娘、耶律鋳の生母)がいる。

== 生涯 ==
蜀(四川省)眉州眉山(眉山市)の出身である〔興膳(2008年)183ページ〕。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる〔。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した〔興膳(2008年)182ページ〕。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた〔井ノ口(2012年)97ページ〕。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた〔。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた〔。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため〔井ノ口(2012年)98ページ〕、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された〔。最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である〔。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受け、彼自身も一旦死を覚悟したが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった〔。左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した〔。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた〔。平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした〔。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇るの水軍を破ったことで知られる〔。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる〔。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法党が復権すると、蘇軾も名誉が回復され、50歳で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した〔興膳(2008年)200ページ〕。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争したことから旧法派の内部でも孤立する。更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された〔。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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