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藤田まこと : ミニ英和和英辞書
藤田まこと[ふじた まこと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

藤田まこと : ウィキペディア日本語版
藤田まこと[ふじた まこと]

藤田 まこと(ふじた まこと、1933年4月13日 - 2010年2月17日)は、日本俳優歌手コメディアン
東京府東京市(現:東京都豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退〔藤田1991、72頁。〕。父は俳優の藤間林太郎。伯母は大正三美人の一人林きむ子〔父の姉(異父姉)(森2000、41-42・50-53頁。)。〕。伯父は曾我廼家喜劇の女形だった曾我廼家弁天〔父の兄(異父兄)(森2000、41-42・50-53頁。)。〕。次女は『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現・EMIKO)。孫(長女の娘)は歌手の花リーナ。血液型はAB型。身長173cm。
オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、新演技座(個人事務所)に所属していた。2002年に紫綬褒章を受章。
== 生涯 ==

=== 誕生・少年時代 ===
1933年4月13日、東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋に生まれる。父親は無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎〔藤田によると、物心ついた時林太郎は俳優として落ち目になっていた。しかし、「売れないことやお金がないことを苦にするふうでもなく、綺麗に美しく落ちて行った」という。藤田は俳優として陰がある人物や必ずしも成功者とはいえないような人物を演じることを好んだが、父親の生き様の影響かもしれないとも述べている(藤田1991、40-43頁。)。1964年、藤田は梅田コマ劇場で上演された「てなもんや三度笠」の舞台で林太郎と共演した。これが親子の唯一の共演である(藤田2006、31-32頁)。この時林太郎は「俺から見てもおまえは絶対にうまい俳優じゃない。人気だって急に出た人気だ。おまえから俺を見ても、うまい役者だとはとても思えないだろう」「親子揃って大根役者だ。そんな二人が客の前で恥をかくのはやめよう。恥かくんなら別々に恥かこう」と述べ、自分が俳優を続けるとまた共演の話がくるという理由で廃業し、出版社で校正の仕事をするようになった(藤田1999、88-89頁。)。藤田は林太郎から「道の真ん中を歩くのはお客さん。芸人は道の脇を歩け。」と教えられ、終生その教えを守った(藤田2006、35頁。)。〕で、母親は林太郎が大阪の帝国キネマに在籍していた時に身請けした芸妓であった〔藤田2006、7頁。〕。藤田は芸能人となった後、林太郎にしばしば「お前が生まれるのには金がかかっている。芸人ならばお前の代で元を取れ」と言われたという〔藤田2006、7頁。〕〔週刊文春(編)2001、209頁。〕。藤田の姉と兄が生まれた後、帝国キネマは撮影所の火災が原因で倒産したため林太郎は大都映画に移籍。そのため藤田は東京で生まれた〔週刊文春(編)2001、208-209頁。〕。母親は藤田を産んだ後伏せりがちとなり間もなく他界したため、藤田はほとんど記憶にないという〔藤田2006、6・8頁。〕。
小学校時代に林太郎が再婚。藤田は継母とそりが合わず(藤田によると再婚した当初は特に反感は抱いておらず兄が反抗していたが、兄に影響されて反抗するようになった。やがて兄は反抗を止めるようになり、藤田だけが反抗するようになった)〔藤田2006、9-10頁。〕。藤田は継母を決して「お母さん」とは呼ばず、兄と姉から「『お母さん』と言え」と殴られたこともあった〔藤田2006、11頁。〕。
1943年、一家は関西へ移った。はじめは大阪府枚方市光善寺へ引っ越したが、近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあることが分かり、すぐに京都府京都市の四条堀川へ再度引っ越した〔藤田2006、10-11頁。〕。終戦後の1946年、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との養子縁組の話が持ち上がり、継母を嫌っていた藤田は承諾した。藤田は養父母に馴染んだ〔藤田2006、15頁。〕が、間もなく志願兵として兵役についていた兄の戦死が判明(搭乗していた輸送船江龍丸がアメリカ軍の攻撃に遭い、沖縄の久米島沖で沈没)し、家族の元に戻ることになった〔藤田2006、16-17頁。〕。
兄が家を出た後、藤田は姉から「お前がお母さんの言うことを聞かないので、家の中がめちゃめちゃになってしまった。だから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と言われた〔藤田2006、12頁。〕。そのため藤田は兄からの最期の音信である葉書を見ては「新しいお母さんと僕が上手くやれていたら、兄貴は戦争に行かなかったかもしれない」、「僕はどうして『お母さん』と素直に呼べなかったんやろう」と後悔するようになった〔藤田2006、17-18頁。〕。後に藤田は兄からの葉書をコピーし、常に携帯するようになった〔2006年9月、藤田は著書『最期』で兄について執筆したのを機に沖縄を訪れ、那覇沖の海に白米のおにぎり、卵、花束、を投げ入れて冥福を祈った(藤田2006、216-220頁。)。〕〔藤田2006、5-6頁。〕。藤田は後年、継母について「いい人でした」〔、「大金持ちのところ(藤田は継母の前夫について、「とある著名な文化人」と述べている〔藤田2006、9頁。〕)から、惚れて貧乏役者のところに来たのに、子供が全くなつかなかったというのは辛いことだったでしょう。彼女にも悪かった」と述べている〔藤田2006、17-18頁。〕。継母は4、5年で林太郎と離婚した〔。
藤田が家族の元へ戻った時、姉は肺を患い伏せっていた(間もなく死去〔藤田2006、35頁。〕)。加えて、林太郎は家庭を顧みない性格の人間だったため、藤田は「頼れるのは自分の才覚だけ」という心境に至り〔藤田2006、18頁。〕、学校をサボって闇市を徘徊〔藤田2006、42頁。〕、夜は京都市内のキャバレー将校クラブの近くで進駐軍兵士の靴磨きや連絡係をして金を稼いだ〔藤田2006、19-20頁。〕。稼いだ金で買ったどぶろくが藤田が飲んだ最初の酒で、ヒロポンエフェドリンにも手を出した〔藤田2006、22-23頁。〕。19歳の時に九州から大阪へ向かう夜行列車の中でヒロポンを使用していたところを警察官に見つかり、逮捕されたこともある〔藤田2006、23-26頁。〕。後年、藤田は『はぐれ刑事純情派』で刑事役を演じたことがきっかけである警察幹部と親しくなったが、ある時ヒロポン使用での逮捕歴を持ち出され、「藤田さん、若い頃はやんちゃだったんですね」とからかわれた〔藤田2006、26頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤田まこと」の詳細全文を読む




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