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藤原時平 : ミニ英和和英辞書
藤原時平[ふじわら の ときひら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

藤原時平 : ウィキペディア日本語版
藤原時平[ふじわら の ときひら]
藤原 時平(ふじわら の ときひら、貞観13年(871年) - 延喜9年4月4日909年4月26日))は、平安時代前期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原基経の長男。官位正二位左大臣正一位太政大臣本院大臣と号した。
藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇親政を始め、皇親である源氏学者菅原道真を起用した。醍醐天皇即位すると道真とともに左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して大宰府左遷させた。時平は政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去した。その早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。
==生涯==
藤原基経の長男として生まれる。父の基経は陽成天皇を廃し、光孝天皇を擁立して太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた。光孝天皇は常に基経の意を迎えていた。
仁和2年(886年)16歳で元服する時平に対して、光孝天皇は宮中でも最も重要な仁寿殿で式を執り行わせ、自ら加冠の役を果たし、この少年に正五位下を授ける。その告文は学者で知られた参議橘広相が起草した。仁寿殿の庭には祝いの金銀で飾られた品々が並び、雅楽が演奏され清和天皇の第八皇子・貞数親王を始めとする上卿の子弟が舞を演じた。これは基経の権力の絶大なることを示す儀式だった。
翌仁和3年(887年)正月には早くも従四位下右近衛権中将に叙任され、8月に宇多天皇が即位すると、時平は蔵人頭に補せられる。天皇は先帝に引き続いて基経に大政を委ね初めて関白に任ずるが、そのにあった「阿衡」の文字を巡って紛糾。最後は基経が天皇に自らの誤りを認めさせる詔を出させて、藤原氏の権勢を示す(阿衡事件)。だが、この事件が宇多天皇と藤原氏との間でしこりとなった。
寛平2年(890年)従四位上次いで従三位と越階昇叙され、20歳で公卿に列す。寛平3年(891年)父・基経が死去するが、時平はまだ21歳と若年のため摂関は置かれず、宇多天皇の親政となった。また、藤氏長者は大叔父の右大臣藤原良世が任じられた。天皇は時平を参議とするが、同時に仁明天皇の孫である源興基を起用、それ以後も源氏を起用することで藤原氏を牽制。そして寛平5年(893年)時平とは血縁関係のない敦仁親王を東宮に定め、時平が天皇の外戚となる道を封じた。同年、天皇は菅原道真を参議に起用する。道真は優れた学者として知られ、阿衡事件の際に、基経がなおも詔を起草した橘広相の流罪を求めたときに上書して諫言した人物であった。
しかしながら、藤原北家嫡流である時平が排斥されることはなく、寛平5年(893年中納言右近衛大将、寛平9年(897年正三位大納言兼左近衛大将に叙任されるなど順調に昇進した。
寛平9年(897年)宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した(醍醐天皇)。宇多上皇は新帝に「時平は功臣の子だが、年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである」と戒めた。それにより、醍醐天皇は権大納言の官職にあった道真を起用して、時平とともに内覧を任せた。またこの年には、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた藤氏長者に時平は補されている。昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられるが、同時に道真も右大臣となり太政官の首班に並んだ。
学者の道真と貴公子の時平は気が合わなかった。時平は情に任せて裁決に誤りが多く、その都度に道真が異を唱えて、対立するようになる。道真は後援者である宇多法皇をしきりに訪ねて政務を相談し、法皇は天皇に道真に政務を委ねるよう相談した。これを知った時平の心中は穏やかではなかった〔『神皇正統記』『扶桑略記』など〕。一方、次の醍醐天皇と時平とは信頼関係が構築されており、宇多法皇と道真、醍醐天皇と時平という二派が形成されたともいわれる。
延喜元年(901年)時平は大納言源光と謀り、道真を讒言。醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰員外帥に左遷する(昌泰の変)。道真は2年後に大宰府で病死した。時平と道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。
時平は道真を追放して政権を掌握した。政変の直後に同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させた。また宇多法皇との関係も改善するよう努めている。時平は意欲的に政治改革に着手し、延喜2年(902年)最初の荘園整理令を出し、史料上で最後といわれる班田を実行した。また、六国史の最後となった「日本三代実録」や延喜式の編纂を行った。時平の治世は延喜の治と呼ばれている。
延喜9年(909年)時平は39歳の若さで早逝した。そのため、道真の怨霊による祟りと噂された。なお、時平の死後、藤原北家の嫡流は弟の藤原忠平とその子孫へ移った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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