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臧質 : ウィキペディア日本語版
臧質[ぞう しつ]
臧質(ぞう しつ、400年 - 454年)は、南朝宋軍人は含文。本貫東莞郡莒県
== 経歴 ==
臧熹の子として生まれた。若くして鷹や犬を好み、双六博打を得意とした。20歳にならないうちに、劉義符の下で世子中軍行参軍をつとめた。420年永初元年)、員外散騎侍郎となった。母が死去したため、臧質は辞職して喪に服した。元嘉初年、喪が明けると、臧質は江夏王劉義恭の下で撫軍参軍をつとめた。その軽薄さが文帝に知られて、給事中として建康に召還された。会稽宣長公主の進言により、臧質は建平郡太守として出向した。南蛮校尉の劉湛が帰朝すると、良太守として報告された。寧遠将軍・歴陽郡太守に転じた。竟陵内史や江夏内史を歴任した。さらに建武将軍・巴東建平二郡太守となった。
30歳を越えると、郡太守を歴任して、史書を読みこなし、書簡を書くのが早くなり、軍事に関する発言を好むようになった。文帝は臧質に益州の事務を代行させようとしたが、その人事は発効しなかった。441年(元嘉18年)10月、臧質は建康に召還されて、使持節・都督徐兗二州諸軍事・寧遠将軍・徐兗二州刺史に任じられた。濫費のために御史の糾弾を受けたが、大赦に遇った。范曄徐湛之らと仲が良く、445年(元嘉22年)に范曄が劉義康の擁立を図った際には、臧質は范曄と同心していたが、たまたま范曄が処断されたときに建威将軍・義興郡太守として出ていたため、処罰を免れた。449年(元嘉26年)、丹徒で文帝の朝見を受け、何勖や檀和之らとともに功臣の子として、上礼を受けることとなった。
450年(元嘉27年)春、南譙王劉義宣の下で司空司馬・寧朔将軍・南平内史となった。任につかないうちに、北魏太武帝が汝南を包囲したため、臧質は文帝の命を受けて寿陽におもむき、現地の軍を率いて安蛮司馬劉康祖らとともに汝南の救援に赴いた。魏軍が退却すると、臧質は汝南西境の刀壁などの少数民族を撃破した。太子左衛率に任じられたが、以前の罪を問われて免官された。ときに文帝が北伐の軍を起こしたため、臧質は無官のまま王方回らとともに許昌洛陽方面に進出した。王玄謨が滑台を攻撃して落とせなかったため、臧質は代わって将軍とするよう志願したが、文帝は許さなかった。
魏軍が徐州豫州に進出し、太武帝が数十万の兵を率いて彭城に向かうと、臧質は輔国将軍・仮節となり、1万人を率いて徐州の救援に向かった。盱眙に到着すると、太武帝はすでに淮水を渡っており、臧質は盱眙郡太守の沈璞とともに盱眙の防衛にあたった。451年(元嘉28年)1月、太武帝は広陵から北帰しようと、盱眙を総攻撃した。臧質は沈璞とともに奮戦し、北魏の高梁王拓跋那を射殺するなど、魏軍に消耗を強いた。451年(元嘉28年)2月、魏軍は包囲を解いて退却した。3月、臧質は功績により使持節・監雍梁南北秦四州諸軍事・冠軍将軍・寧蛮校尉・雍州刺史となり、開国子に封じられた。452年(元嘉29年)、文帝は再びの北伐を計画して、臧質に潼関へ向かわせようとした。しかし臧質は近郊に兵をとどめて出立しなかった。臧質は国庫の銭6、700万を散財した罪により、御史の糾弾を受けたが、文帝は罪を問わなかった。
453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、臧質は丹陽尹となり、征虜将軍の号を加えられた。臧質の門生の師顗が文帝死去の事情を臧質に報告すると、臧質はその情報を劉義宣に伝え、さらに雍州祭酒従事の田穎起を派遣して武陵王劉駿に報告した。臧質は劉劭を打倒すべく5000の兵を集めて、陽口から江陵に進出した。臧質の諸子は建康にいたが、臧質が起兵したと聞くと、そろって逃亡した。臧質は劉駿のいる尋陽におもむき、征北将軍の号を受け、劉駿の軍とともに東下した。劉駿(孝武帝)が新亭で即位すると、臧質は都督江州諸軍事・車騎将軍・開府儀同三司・江州刺史となり、散騎常侍の位を加えられた。臧質は広莫門から建康に入り、薛安都や程天祚らは南掖門から入城して、太極殿で合流して劉劭を生け捕りにした。臧質は朝堂の留守をつとめ、始興郡公に封じられた。
ときに南郡王劉義宣は孝武帝から受ける処遇に不満を高め、臧質や魯爽と相談して454年孝建元年)秋を期して挙兵する計画を立てた。しかし魯爽が酒に酔って計画にそむき、2月に兵を起こした。劉義宣と臧質はやむなく挙兵したが、薛安都垣護之らに敗れて尋陽に退却し、臧質は妓妾を連れて西に逃亡した。臧質の妹の夫の羊沖が武昌郡にいたため、臧質はこれを頼ろうとしたが、到着すると羊沖はすでに郡丞の胡庇之に殺害されていた。南湖に入って逃げ隠れ、蓮を摘んで飢えをしのいだ。追っ手の兵がやってくると、荷で頭を覆い、水中に沈んで隠れた。しかし鼻を出していたため、軍主の鄭倶児に発見され、矢に射貫かれた。水中で兵の乱刃が加えられたため、その胃腸は水草にまみれた。隊主の裘応が臧質の首級を斬って、建康に伝えた。享年は55。王莽の例に倣って、首級には漆が塗られ、武庫にしまわれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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