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清水徳川家 : ミニ英和和英辞書
清水徳川家[しみずとくがわけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

清水 : [せいすい, しみず]
 【名詞】 1. (1) spring water 2. (2) clear (pure) water
徳川家 : [とくがわけ]
 【名詞】 1. the House of Tokugawa 2. the Tokugawas
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

清水徳川家 : ウィキペディア日本語版
清水徳川家[しみずとくがわけ]

清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に清水家とも言う。
== 概要 ==
清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。ただし、清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない(3代斉順の子家茂が14代将軍に就いているが、斉順が清水家を転出した後にもうけた子である)。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園日本武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。
重好は宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を与えられ、1757年に御守(家老)2名が付けられ、1758年に清水門内に邸地を与えられた。1759年元服して宮内卿を称し、賄料1万5千俵を加増されて屋形に移った。1762年、新規に賄料領知10万石を武蔵上総下総甲斐大和和泉播磨の7ヶ国に与えられた。
清水家は実子のなかった初代の重好以来、維新期に至るまで実子による相続が皆無であり、養子入りして幼少で当主になった者が多い。加えて御三家に転出した当主が相次いだこともあって一時的な断絶を繰り返しており、御三卿の中で最も出入りが激しい家でもある。なお、寛政7年(1795年)の重好死去の際、嗣子なくして当主は空席となり、所領・家屋敷・家臣は一時的に幕府に収公されている。これは、同じ御三卿である他の2家(田安家一橋家)が、空席の場合は明屋敷となるもそれら組織が存続されたことと比して異例であった。
清水家はその後、寛政10年(1798年)に将軍徳川家斉の幼い息子敦之助を当主として再興される。敦之助は清水屋敷へ移ることのないまま翌年に夭逝するが、子だくさんであった将軍家斉はその後も30年の間に斉順斉明斉彊と、次々に息子を清水家当主に据えた。このうち斉順と斉彊は清水家を出て紀州徳川家を継ぎ、斉明は夭逝した。
弘化3年(1846年)から20年に及ぶ明屋敷の後、江戸時代に最後に当主となったのは、最後の将軍徳川慶喜の弟で水戸徳川家出身の昭武である。慶喜は、パリ万国博覧会への使節の派遣に当たって昭武を名代に任じ、その便宜として慶応2年(1866年)に清水家を継がせた(形の上で水戸家から離され、同家への配慮の必要が薄れる)。昭武は当時実子のなかった慶喜から、自身の後継者候補とも目されていた。渡仏した昭武は、幕府代表としてヨーロッパ外交に努め、また万博閉幕後もフランスに滞在して勉学にも励んだが、その間に大政奉還明治政府の樹立、さらに長兄の水戸藩主徳川慶篤の死が続いた。昭武は明治元年(1868年)に帰国すると、水戸家の家督を継ぎ、そのため清水家はまたも当主不在となった。そうした事情もあって、御三卿の他の2家が維新後に一時とはいえ田安藩・一橋藩を立藩したのと異なり、「清水藩」は立藩していない。
明治3年(1870年)2月、昭武の甥(慶篤の次男)篤守が新たに清水家当主となって家禄2500石を支給され、華族に列した。篤守は相続の際に清水姓に改めたが、明治10年(1880年)には徳川姓に復している。明治17年(1884年)の華族令伯爵を授けられたが、篤守は負債を巡る訴訟事件により「華族の礼遇に耐えられず」として、明治32年(1899年)に爵位を返上した。明治35年6月15日付の『東京朝日新聞』により、清水徳川家の関係者による徳川慶喜の子息を相続人とする再受爵運動を確認できる。結局、日本最初の航空パイロットとして知られる篤守の嫡子好敏日本陸軍航空兵分野確立の功労により、昭和3年(1928年)にあらためて男爵が授けられた。後に好敏は陸軍中将に昇進している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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