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浸透戦術 : ミニ英和和英辞書
浸透戦術[しんとうせんじゅつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

浸透 : [しんとう]
  1. (n,vs) permeation 2. osmosis 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦術 : [せんじゅつ]
 【名詞】 1. tactics 
: [すべ]
 【名詞】 1. way 2. method 3. means

浸透戦術 : ウィキペディア日本語版
浸透戦術[しんとうせんじゅつ]
浸透戦術(しんとうせんじゅつ、)とは、一般に第一次世界大戦後半に採られたドイツ軍の戦術のことを指す。ただし、連合軍による他称であり、当のドイツ軍はとくに名称を付けていない。〔Lupfer(1981),p. 42.〕
==突撃部隊==
浸透戦術はドイツ軍と密接なかかわりがある。以下、ドイツ軍の戦術の変遷を中心に述べる。
20世紀初頭、各国の歩兵戦術は散兵線の構成を基本としていた。散開したときも各散兵は2歩分しか広がらず、戦闘においては中隊長が中隊以下を直接指揮していた。ドイツ軍の歩兵操典によれば、歩兵中隊244名の戦闘正面は、攻撃時に100mを著しく超過しない程度とされ、防御時には兵数に従い120ないし150mとされていた。〔北旭生(1903),p. 65.〕
1902年のボーア戦争は兵学界に論争を巻き起こした。戦力に劣るボーア軍が、6週間のうちに3度、2倍以上の戦力を有するイギリス軍を破ったのである。これらの戦闘の特徴は、イギリス軍の長く薄い正面攻撃が有力なるボーア軍散兵線の急射撃に敗れたことにあった。ドイツでは、戦訓を重視して分散化した散兵線を構成するようになった。しかし戦場が広くなりすぎて中隊長が指揮できないとされて旧来に戻された。1904-5年の日露戦争はこれに再考をもたらし、従来の縦隊戦術の好例であると見なした者もいれば、初期戦闘での惨烈な死傷者数におどろいた日本軍がより広い散兵線を構成するようになったと見た者もいた。地方分権的なドイツ帝国においては、教範の解釈が画一的ではなく、部隊によって密集隊形を重視するか散開隊形を重視するか分かれていた。
1914年、第一次世界大戦初頭の悲惨な経験は、散開隊形に軍配を上げた。ドイツ軍のある部隊が攻撃を行ったところ、散開隊形だった15コ中隊2250名のうち2225名が生き残ったが、密集隊形だった残り1コ中隊は150名のうち半数が死傷した。〔Gudmundsson(1989),p. 24.〕1914年の終わりまでには、全軍に散開隊形が採用されるようになっていた。
1915年、しかし西部戦線の高度に発達した鉄道網と陣地線に対抗するには、散開隊形でもってしても限界があった。ドイツ軍においては、手榴弾坑道戦毒ガス火炎放射器と次々に採用してなんとか突破の糸口を見つけようとした。そのなかでもマックス・バウアー中佐は攻撃する歩兵に大砲を随伴させることを考えた。ちょうどクルップの37ミリ砲が開発されていた。1915年3月2日、ドイツ陸軍省は第8軍の軍団に工兵部隊から提供された人員で突撃隊をつくるよう命令した。実験部隊の隊長に選ばれたのはCalsow大尉である。
Calsow大尉の試みは失敗した。37ミリ砲は発砲光で容易に発見され、フランス砲兵の格好の標的となった。Calsow大尉は更迭され、かわりにエルンスト・ローワ大尉が就任した。実験部隊には惜しみない支援が与えられ、機関銃小隊、迫撃砲小隊、火炎放射小隊があらたに配属された。大尉が注目したのはロシア製の鹵獲76.2ミリ野砲だった。直接照準で陣地を制圧するのに最適とされ、任務に合うよう改造されて導入された。訓練では、5000分の1の精密な地図を使用し、航空写真などから得たフランス軍塹壕の実物模型を使って、なんども演習を繰り返した。こうした実験部隊の戦術の基本的要素は以下の通りである。
#散兵線の前進ではなく小隊規模の突撃隊による奇襲突撃へ変える
#攻撃前進間、敵を制圧するため支援兵器を使う(機関銃、歩兵砲、塹壕砲、間接砲兵、火炎放射器)
#手榴弾を装備した部隊で塹壕を掃蕩
フリードリヒ大王の時代、下士官は戦列の後ろで兵の逃亡を防ぐのが役目だった。しかしいまや戦闘指揮の焦点は少尉や下士官にうつり、かれらはみずからの意思で戦場を駆け巡るようになった。
1916年2月、突撃隊はヴェルダンの戦いで本格投入された。この戦いで、抵抗点をバイパスしてできるかぎり前へ押し出すドイツ歩兵の姿を見て、フランス側はこれを「浸透戦術」と呼び始めた。ドイツ側はとくに名称を付けていない。それどころかこの「浸透戦術」は歩兵のテクニックのごとき印象を与えているが、当のドイツ軍は諸兵科連合、とくに歩兵と砲兵の協同を重視していた。〔Lupfer(1981),p. 42; Gudmundsson(1989),p. 66.〕
ローワ突撃隊はヴィルヘルム皇太子、そしてエーリヒ・ルーデンドルフという後援者を得た。ルーデンドルフは西部戦線で大機動戦を復活させる良い手段だと考え、軍ごとに将校や下士官を突撃隊のところへ行かせ、最新の戦術を学ばせるようにした。ローワ突撃隊は実戦部隊というよりも訓練部隊として活躍した。1916年12月、ドイツ軍は1906年版歩兵操典にかわる「戦時徒歩部隊訓練教令」を発布。散兵戦は公式に過去のものとなり、第二次世界大戦までスタンダードとなった歩兵戦術が誕生した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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