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浅野総一郎 : ミニ英和和英辞書
浅野総一郎[あさのそういちろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [そう]
  1. (n,pref) whole 2. all 3. general 4. gross 
: [いち]
  1. (num) one 

浅野総一郎 : ウィキペディア日本語版
浅野総一郎[あさのそういちろう]

浅野 総一郎(淺野總一郎 あさの そういちろう、1848年4月13日嘉永元年3月10日) - 1930年昭和5年)11月9日)は日本実業家。一代で浅野財閥を築いた。
== 経歴 ==
越中国氷見郡藪田村(現・富山県氷見市)に、医師淺野泰順の長男として生まれた。幼名は泰治郎。姉夫婦が家督を継ぐことになったため、1853年(嘉永6年)に氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となるが、理由あって離縁し、1861年文久元年)に養家より戻った。
周囲の反対を押し切り、家業の医師ではなく商人を志す。1866年慶応2年)、氷見郡大野村の豪農・鎌仲惣右衛門の長女と婚姻し婿養子となる。越中の海産物等を運搬し北陸への販売を始めたが、船の遭難により巨額の資本を失う。これを契機に商売を諦めるように婚家や身内から説得されるが、商人となることを諦めきれず離縁となる。
一旦は実家に戻るが、1871年明治4年)の春、23歳の時に上京。当初は、東京本郷の旅館を宿とした。この宿の主のアドバイスから、夏場は御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋をすると予想以上に繁盛し貯金ができた〔氷川隠士『現代実業家立身伝』(磯部甲陽堂、1912年)112頁〕。浅野はその資金を携え、一旗上げるために当時創業期であった横浜に向かう。横浜で勤めた味噌屋で贈答用の包みとして使われていた竹の皮に興味を持ち、贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋となる。これを販売していたところ、医者であった父の旧友と横浜で偶然に再会、その勧めを商機と見た浅野は薪炭商(しんたんしょう)に転向した。
(この部分は、平凡社の大百科事典によれば、「浅野総一郎(1848-1931)は、越中藪田(現富山県氷見市)に百姓の長子として生まれ、1871年に上京、お茶の水で水売りを初め、竹の皮商から薪炭商へ転じ、コークスの売り込みに成功。」とある。)
1872年(明治5年)にサク(佐久、鈴木長右衛門の孫)と結婚。向かいの貸し布団屋の女中が実によく働くのに目をつけ浅野が求婚したもので、以来、妻の佐久との共働きで成功していくことになる。
1873年(明治6年)に石炭や薪炭を売り込む商いでガス会社とつながりができ、石炭の廃物であるコークスの処分に困っていた横浜ガス局からコークスコールタールを安値で買い取り、セメント製造の燃料として用いる方法を開発、ただ同然のコークスを深川のセメント工場に納めて巨万の利益を得た〔東京ガスの歴史とガスのあるくらし 高橋豊、川崎区役所、平成18 年10 月19 日〕。セメントが建設資材の柱になることにいち早く着目、1884年(明治17年)には官営深川セメント製造所を好条件で払い下げられ、これが浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)の基礎となる。この払い下げには取引で浅野の仕事ぶりを見込んだ渋沢栄一の後ろ盾があった。浅野は、王子抄紙部(後の王子製紙(初代))にコークスと物々交換で石炭を納入していたが、人足等と真っ黒になって働く浅野に驚嘆した抄紙部総理渋沢栄一は、浅野を私邸に招き絆を深めた。以来、浅野は渋沢の助言をもとに、水力発電所鉄道建設など急増する需要を受けて、積極的な経営戦略を展開する。なお、浅野セメントの経営には、渋沢の代理として大川平三郎が加わった。また、横浜から深川までコークスを運搬するために運搬業も始め、それが東洋汽船へとつながっていった〔。
一方で、1896年(明治29年)には欧米視察に赴き、イギリスドイツアメリカなどの港湾開発の発展ぶりを目の当たりにする。横浜港に戻るとその旧態依然とした港の様子に衝撃を受け、浅野は港湾を近代化し、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に政府の支援を受けずに独力で建設することを計画する。この大規模計画に神奈川県は当初、二の足を踏むが、浅野の計画の価値を認めた安田善次郎が支援に乗り出したことで動き出す。浅野が浅野セメントを合資会社にする際に安田が出資に協力して以来、安田は渋沢同様に浅野の理解者であった。また安田と浅野は同じ富山県の出身でもあり、安田の事業家精神に浅野は心酔していく。
埋め立て工事は、大正から昭和の初めにかけて約15年間に及ぶ年月をかけて完成、浅野は、浅野造船所(後の日本鋼管、現JFEエンジニアリング)など多数の会社を設立した。その後、第一次世界大戦の特需を受け、一代で浅野財閥を築いた。
1930年5月より欧米視察に向かうが、6月26日にベルリンで発病し、8月2日に帰国して大磯町の別邸で療養していたが、同年11月9日食道癌と急性肺炎のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)13頁〕。神奈川県横浜市鶴見区總持寺に葬る。法名は積功院殿偉業総成大居士。
銅像が浅野学園の敷地内に建てられている。
2008年7月、生地である氷見市薮田にある海岸近くの児童公園を廃して、富山湾を臨むようにした大きな銅像が建てられた。
2012年4月、氷見市から渋川市へ銅像が寄贈され、佐久発電所内のふれあい公園に氷見市の方向を向いた姿で設置された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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