翻訳と辞書
Words near each other
・ 沖田川
・ 沖田愛
・ 沖田房良
・ 沖田承之進
・ 沖田杏梨
・ 沖田林太郎
・ 沖田桃果
・ 沖田正人
・ 沖田武子
・ 沖田浩之
沖田畷の戦い
・ 沖田眞
・ 沖田真子
・ 沖田神社
・ 沖田総司
・ 沖田総司 (1974年の映画)
・ 沖田総平
・ 沖田総悟
・ 沖田艦
・ 沖田艦長


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

沖田畷の戦い : ミニ英和和英辞書
沖田畷の戦い[おきたなわてのたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おき]
 【名詞】 1. open sea 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

沖田畷の戦い : ウィキペディア日本語版
沖田畷の戦い[おきたなわてのたたかい]

沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、日本戦国時代天正12年3月24日1584年5月4日)に肥前島原半島長崎県)で勃発した戦い。九州戦国大名である龍造寺隆信有馬晴信島津家久の合戦である。「畷」とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。
== 合戦までの経緯 ==
龍造寺氏少弐氏の被官から下克上で戦国大名となり、隆信の代には佐賀を本拠地として肥前国を統一する。さらに元亀元年(1570年)の今山の戦い大友宗麟軍を破り、勢いに乗って肥後半国、筑前筑後豊前の一部(長崎県、佐賀県熊本県北部、福岡県)を獲得した。
天正6年(1578年)に大友宗麟は日向に南征し、島津義久に大敗する(耳川の戦い)。この結果、大友家は多くの有力武将を失い、さらに大友庶家・家臣団の離反も相次いで大きく衰退する。そのため大友家は当時九州で成立していた九州三強から脱落し、耳川の戦いで大勝した島津家と、その合戦に乗じて大友領を侵食した龍造寺家の二強が争う時代となる。
天正9年(1581年)、島津家は肥後に北上する〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)349頁〕。これに対して龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣して島津方の赤星親隆を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房も降伏させた〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)336頁〕。このため肥後北部の国人は龍造寺家に帰順するが、隆信は一方で筑後柳川の蒲池鎮並一族を小河信貴、徳島長房に殺害させるなどした〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)342頁〕。
蒲池鎮並を誘殺したことは、諸将士の離反を惹き起こし〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)342頁〕、筑後衆の中では隆信に叛く者が出るにいたった〔川副博著、川副義敦考訂『五州二島の太守龍造寺隆信』(佐賀新聞社、2006年)346頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「沖田畷の戦い」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.