翻訳と辞書
Words near each other
・ 永堀川
・ 永堀美穂
・ 永塚拓馬
・ 永塚紗季
・ 永夜抄
・ 永大
・ 永大 (埼玉県)
・ 永大勝ち抜きのど自慢
・ 永大杯囲棋戦
・ 永大産業
永大産業サッカー部
・ 永天
・ 永始
・ 永始 (東晋)
・ 永始 (桓玄)
・ 永始 (漢)
・ 永姫
・ 永子作
・ 永子作権
・ 永字八法


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

永大産業サッカー部 : ミニ英和和英辞書
永大産業サッカー部[えいだいさんぎょうさっかーぶ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うぶ]
  1. (adj-no) innocent 2. naive 3. unsophisticated 4. inexperienced 5. green 6. wet behind the ears
産業 : [さんぎょう]
 【名詞】 1. industry 
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

永大産業サッカー部 : ウィキペディア日本語版
永大産業サッカー部[えいだいさんぎょうさっかーぶ]

永大産業サッカー部(えいだいさんぎょうサッカーぶ)は、かつて日本に存在したサッカークラブ。創部からわずか2年で日本サッカーリーグ (JSL) 1部に昇格を果たしたが、会社の業績悪化により実質5年間の活動で消滅した。
== 歴史 ==
永大産業の創業者・深尾茂会長の肝いりで1969年に永大産業の子会社である永大木材工業の製造拠点のあった山口県熊毛郡平生町〔平生町には現在も永大産業のフローリング・パーティクルボードなどの製造拠点である「山口・平生事業所」が存在する。〕で創設されたサッカー部が前身。深尾の特命を受けた東京ガスサッカー部出身の河口洋がチーム作りを担当し、広島県サッカー協会幹部で山陽高校監督の渡部英麿日本サッカー協会の一級レフェリーで警視庁機動隊サッカー部コーチの御代典生に選手補強の協力を仰いだ。創部3年目に山口県の実業団オープントーナメントの「野上杯争奪サッカー大会」と、山口県内の市町村対抗であった「山口県体育大会サッカー競技」で県の2冠を獲得すると、県リーグ3部で全勝優勝、2部との入れ替え戦も難なく通過する。永大は山口県サッカー協会に県1部への飛び級を打診。山口県サッカー協会の示した、「野上杯争奪サッカー大会優勝」と「県リーグ1部最下位の山口県サッカー教員団(のちのレノファ山口FC)に勝利」の条件をクリアして1部に飛び級した。
1972年、前年に休部した名古屋相互銀行から、渡部の教え子である大久保賢を監督として迎え、また名相銀で移籍を希望した計6選手が加入し戦力が整い、永大産業本体のサッカー部に格上げされて正式発足。経験豊富なJSL出身の選手達の力と、整備されたグラウンドを所有し練習環境が万全であったこともあり、「中国社会人サッカー選手権」と「全国社会人サッカー選手権」(全社)を制覇。全社優勝により「永大産業サッカー部」になってから1年で県1部リーグからJSL2部に昇格、2年目(1973年)にはJSL1部と短期間でJSL昇格を果たした。JSLでは上位進出はならなかったが、1974年後期以降はジャイロ・マトス、ジャイール・ノバイス、アントニオ・ペレのブラジル人トリオが加入。同年の第54回天皇杯全日本サッカー選手権大会では創部3年目で決勝進出を果たし、決勝戦は釜本邦茂擁するヤンマーディーゼルに1対2で敗れ準優勝という結果となった。
1975年にはセルジオ越後がコーチに就任し、トップチームの指導のみならず地元の少年サッカーの指導にもあたった。しかし1977年3月に、会社の業績悪化のため〔永大産業は1978年、約1,800億円の負債を抱えて会社更生法を申請。その後、2007年に再上場した。〕廃部が決定し、短い歴史に幕を下ろした。現役生活を続ける意思のあった選手達の中で、MFのジャイロが読売クラブ。FWの中村道明が東芝。GKの城山義輝、DFの山本誠、権代正樹、MFの三瓶弘幸が本田技研へと活動の場を求めた。
コーチのセルジオ越後は、この永大時代から少年サッカーの指導を始め、永大での経験を活かしその後「さわやかサッカー教室」を主催し全国の少年サッカーの育成に携わる事になった〔Kagawa Soccer Library 賀川サッカーライブラリー 〕。二代目の監督の塩沢敏彦明治大学監督を経て1986年から1991年まで全日空クラブの監督を務め同クラブの躍進に尽力、2005年には日本サッカー協会から派遣されネパール代表の監督を務めている。また永大に在籍していた選手には指導者を志した者も多く、これまで何人もの選手達をJリーグへ送り出している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「永大産業サッカー部」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.