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永六輔 : ミニ英和和英辞書
永六輔[えい ろくすけ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ろく]
  1. (num) six 

永六輔 : ウィキペディア日本語版
永六輔[えい ろくすけ]

永 六輔(えい ろくすけ、1933年昭和8年)4月10日〔http://www.tbs.co.jp/radio/rokuchan/profile/index-j.html〕 - )は、日本の元放送作家作詞家で、現在はラジオ番組パーソナリティタレント随筆家である。本名、永 孝雄(えい たかお)。
角刈り頭と細長い顔がトレードマーク
長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)、麻理の長男で孫の育乃介は俳優。藤本義一とは遠戚である。
== 略歴 ==
1933年(昭和8年)、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日外国人17代目と自称〔永六輔さんとワンコリアを語る。 〕。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた。東京・下谷区(現在の台東区)の国民学校に通っていた1944年昭和19年)、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在の小諸市)の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。
1946年長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。 
この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった〔佐藤有一 『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。〕。1952年早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学文学部を1952年に中退〔〔新鐘71 早稲田に聞け!「福祉」 痛快! 校友インタビュー永六輔 (2004年12月24日掲載)〕。
以後、ラジオ・テレビ番組企画演出や、ピアニスト作曲家中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動〔永六輔 『職人』 岩波書店〈岩波新書〉、157-168頁。〕、佐渡島独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。
ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している〔永六輔「八七六倒転輔35」『キネマ旬報』1976年6月上旬号、p.123〕。
1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落としたために番組を降ろされている〔井原高忠「元祖テレビ屋大奮戦」文芸春秋〕。
1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。
1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。
1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。
2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。
2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。

音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである〔『誰かとどこかで』2010年11月11日放送分〕。
2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ〔「永六輔『回らないろれつ』『激やせ15キロ』の孤独生活」『週刊女性』2009年7月14日号〕、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが〔篠田博之篠田博之のメディアウォッチ 週刊誌を読む:「老い」に率直な感想 永さんら世代の長い活躍願う 高野孟のTHE JOURNAL 内 2009年8月6日〕
〔「永六輔×矢崎泰久のぢぢ放談 第5回」『創』2009年9月10月合併号、pp.128-129〕、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けている〔「永六輔×矢崎泰久のぢぢ放談 第16回」『創』2010年11月合併号、p.130〕〔永六輔が自宅で転倒し骨折 昨年は衝突事故で軽傷と災難続き msn産経ニュース 2011年11月18日〕。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された〔ヒューマンドキュメンタリー 永六輔 戦いの夏 テレビマンユニオン公式サイト内〕〔ヒューマンドキュメンタリー 永六輔 戦いの夏 NHKワールドプレミアム〕。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになってきている。。
パーキンソン病の影響で歩行困難になっており〔、2006年奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術〔。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いている。2012年1月17日に退院。リハビリは継続して行っている。
2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「永六輔」の詳細全文を読む




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