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正岡容 : ミニ英和和英辞書
正岡容[まさおか いるる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground

正岡容 : ウィキペディア日本語版
正岡容[まさおか いるる]

正岡 容(まさおか いるる、1904年(明治37年)12月20日 - 1958年(昭和33年)12月7日)は、作家落語寄席研究家。歌舞伎役者六代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた。前名は平井 蓉(ひらい いるる)。
詩人の平井功は実弟。翻訳家の平井イサクはその子で、正岡にとっては甥にあたる。
==来歴==
東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)生まれ、父は軍医であった。浅倉花川戸に住む大叔父・正岡藤蔵の養子になる〔Spring 2012 | KAAT 神奈川芸術劇場 | KAAT式 らくごの会 〕。
京華中学校在学中、短歌吉井勇戯曲久保田万太郎川柳阪井久良伎に学び、それぞれの弟子を自称する。1922年(大正11年) 、歌集『新堀端』、小説紀行集『東海道宿場しぐれ』を発表。1923年(大正12年)、日本大学芸術科選科入学。同年19歳で発表した小説『江戸再来記』が芥川龍之介に絶賛されたのを機に文筆活動に入り、大学は中退する。『東邦芸術』の同人となる。
1923年(大正12年)9月、関東大震災に遭遇し関西へ放浪の旅へ。1925年(大正14年)の秋に三代目三遊亭圓馬夫妻の紹介で石橋幸子と結婚し、大阪市に居住。圓馬に師事して「文士落語」「漫談」で各所に出演し活躍し、文筆でも『新小説』に「明治開花期の落語について」を発表するなど執筆量も増加した。のち、記者時代の真杉静枝と恋に落ちて情死を図ったが未遂に終わる。北村兼子とともに、掛け合い漫談をレコードに吹きこんだこともある。
1929年(昭和4年)には大阪で知った女性と小田原に移住。翌年、名古屋で「文芸落語発表会」を開催。
1931年(昭和6年)、東京市滝野川区西ケ原に移転。1933年(昭和8年)、名をからに改める。1936年(昭和11年)小島政二郎に入門して小説を修業。西尾チカと結婚し、小岩で所帯を持つ。
1941年(昭和16年)、舞踏家花園歌子と結婚し、大塚巣鴨に転居。太平洋戦争の直前、雑誌『日の出』に発表した『圓太郎馬車』が古川緑波主演により映画化、東京有楽座で上演される。
その後も、江戸期の戯作本の研究から明治大正期の寄席芸能に関する論文やエッセイ、自作の落語の台本を精力的に発表する。浪曲でも二代目玉川勝太郎に『天保水滸伝』、初代相模太郎に『灰神楽三太郎』の台本を提供したのをはじめ、複数の台本を提供している。また『浪花節更紗』は吉川繁吉(後の桃中軒雲右衛門)が梅車の妻おはまと駆け落ちの際、捨てられた弟子・後の木村重松に材を取った短編小説である。
1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅が全焼し、その年の11月、阪井久良伎の紹介により市川市に移住、1953年(昭和28年)10月まで住んだ。
頚動脈破裂のため慶應義塾大学病院で死去。死の数日前に詠んだ辞世の歌に「打ち出しの 太鼓聞えぬ 真打は まだ二三席 やりたけれども」。墓所は台東区玉林寺戒名は「嘯風院文彩容居士」。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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