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柄谷行人 : ミニ英和和英辞書
柄谷行人[からたに こうじん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [つか, え]
 【名詞】 1. hilt (of a sword) 2. haft (of a dagger) 3. handgrip
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 
行人 : [こうじん]
 【名詞】 1. passer-by 2. traveler 3. traveller
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

柄谷行人 : ウィキペディア日本語版
柄谷行人[からたに こうじん]

柄谷 行人(からたに こうじん、1941年8月6日 - )は日本哲学者思想家文学者文芸評論家。本名は柄谷 善男(よしお)。兵庫県尼崎市出身。
筆名は夏目漱石の小説『行人』にちなむ、と一般に言われるが、本人は否定。「kojin」という語感と響きから偶然に思いついたという〔「文学と運動-2000年と1960年の間で」(インタビュー)2001年『文学界』1月号〕。
国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、近年では「アソシエーション」という言葉を強調している。それにもとづき、2000年6月にはNAM(New Associationist Movement)を立ち上げる(2003年1月解散)。
== 経歴 ==

=== 1960 - 70年代 ===
1969年夏目漱石を主題とした「意識と自然」で第12回群像新人文学賞評論部門を受賞〔選考者は江藤淳大江健三郎野間宏安岡章太郎〕。文芸批評家としてのキャリアをスタートさせる。20代の柄谷は、吉本隆明を高く評価していたことが初期論文の「思想はいかに可能か」や「心理を越えたものの影」からうかがわれる。〔吉本隆明は、1980年代〜90年代、自分を批判した浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と激烈に応答した(『情況への発言全集成3(洋泉社2008)』p200p278p338)柄谷行人に関しては、1989年時点で、「せっかくブント体験をもってるのに」「最低のブント崩れ」とも評している(『情況への発言全集成3(洋泉社2008)』p226参照)。ただし2005年になって、吉本は「今は、どう動くかを考える段階、考えて具体的なものをだすべき段階」「いつまでもつまらない世代論を論じている場合じゃない。そんなことにはあまり意味がない」として、まだ「若くて政治運動家としての素質もやる気がある」人間として唯一柄谷行人の名を挙げ、「やってほしいこと、やるべきこと」の注文をつけている(『時代病』(ウェイツ, 2005)あとがきp204参照。なお親鸞の「還相」を、吉本隆明は2002年『超戦争論』においては、「視線の問題」である、としている。吉本は、「親鸞が還相ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向からー未来の側からといいましょう、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向うからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。」と述べている(『超・戦争論』(2002アスキーコミュニケーションズ)下巻pp230参照)〕また、評論に夏目漱石を選んだのは、『漱石とその時代』等の漱石論・保守派的な論客で知られる江藤淳に読んでもらいたかったからだという。柄谷は若い頃には江藤淳の文章を筆写して文章の練習をしていた。大学院で英文学を選考したのも、江藤や福田恆存といった好んで読んでいた評論家のバックボーンが英文学だったことによる。1975年にアメリカ・イェール大学に滞在する時、(哲学科や英文科でなく)日本文学の研究・講義をすることになったのも江藤淳の推挙である。
文芸批評家としては「内向の世代」(古井由吉後藤明生)を擁護。また中上健次とは、デビュー前から友人であり、その作品の終生における同伴者となる。中上の死の時には弔辞も読んでいる〔「朋輩中上健次」『文学界』1992年10月〕。また、デビュー以来の漱石論は断続的に執筆し続け、作品論としては『草枕』『』『三四郎』『明暗』『道草』『それから』『虞美人草』を新潮文庫版のそれぞれの解説に執筆している〔これら漱石に関する論考は、2001年平凡社ライブラリー版『漱石論集成』にほぼ全て収められている)〕。
1973年新左翼運動衰退のメルクマールとなる連合赤軍事件を暗に主題とした「マクベス論」を発表。以降「内面への道が外界への道である」〔「内面への道と外界への道」:『畏怖する人間』収録〕として、文芸批評の枠を超え、理論的(再)吟味を中心とした仕事を数多く行うこととなる。その中心にすえられたのが、価値形態論を中心としたマルクス資本論』の読み直し・再解釈である。いままでのマルクス・レーニン主義の視点からでないマルクスを発見する、そして新たな連帯・コミュニケーションの形を見つけ出す、という目論見に基づくものであった。
1973年「マルクスその可能性の中心」連載を『群像』で開始(1978年出版)。また1975年には、アメリカ・イェール大学で、ポール・ド・マンと出会う。1980年代に有名となった文芸理論としてのディコンストラクションイェール学派のド・マンを通して、1978年には哲学の脱構築ジャック・デリダにも出会った。
その理論的仕事は三浦雅士編集長下の『現代思想』(1973 - )(青土社)に発表されることが多く〔『内省と遡行』(1980連載)『形式化の諸問題』(1981)等。三浦雅士が『現代思想』編集から離れたときには『「現代思想」と私』(1981.12)という短いエッセイを捧げている〕、蓮實重彦とともに1983年浅田彰構造と力』で始まる「現代思想ブーム」「ニューアカデミズム」の一端を70年代において準備した。三浦は柄谷の『心理を越えたものの影ー小林秀雄吉本隆明』〔1973『畏怖する人間』収録〕で「同時代人を発見した」と思ったという。『現代思想』では70年代、当時注目の言論人としばしば対談を行い〔多くは『ダイアローグ』のI・IIに収録されている〕、三浦は柄谷を雑誌の方向性の中心に据えたという〔「意識と自然」からの思考― 三浦雅士との対談『ダイアローグIV』〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「柄谷行人」の詳細全文を読む




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