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東武熊谷線 : ミニ英和和英辞書
東武熊谷線[くまがやせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
: [くま]
 【名詞】 1. bear (animal) 

東武熊谷線 : ウィキペディア日本語版
東武熊谷線[くまがやせん]


熊谷線(くまがやせん)は、埼玉県熊谷市熊谷駅から大里郡妻沼町(現・熊谷市)の妻沼駅までを結んでいた東武鉄道鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた。
== 概要 ==
もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市中島飛行機(現・富士重工業)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年昭和18年)12月5日に熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。なお、免許は東小泉駅(起点) - 熊谷駅間となっている。
建設には、上熊谷駅付近の高崎線秩父鉄道秩父本線の分岐部の三角地帯に転車台などの作業基地をおいた。秩父鉄道の大麻生付近の貨物線で荒川から土砂を採取し、秩父鉄道のダイヤを縫いながら7分で石原付近の盛土部へ輸送した。そのため、熊谷線の盛土部は荒川の河川部と同じを含んだ砂地であり、周囲の地質とは異なっていた。高崎線の立体交差は、幹線として日夜運行量の多い高崎線の邪魔にならないように、土を盛るのは微妙な調整のいる難工事であった。また、三交代制の突貫工事であったにもかかわらず、死者は一人も出なかった。
熊谷市石原付近(上熊谷駅 - 石原駅中間地点のやや石原駅寄り、かつての熊谷線と秩父鉄道の分岐点)で秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して建設、熊谷駅南側に熊谷線のホームを設置する予定であったが、そのための盛土を構築する時間はないため秩父鉄道の複線化用地と熊谷駅ホームを借用し、熊谷駅 - 上熊谷駅 - 熊谷市石原付近を仮線として開通した。この際に、利根川への架橋(第二期工事)が完成したとき、または秩父鉄道が複線化するときにこれを返還するとした協定が結ばれた〔長谷川候「熊谷線の廃止に想う」『交通東武』1983年8月10日〕。
戦時中の資材不足のため、熊谷線を建設する目的で東武日光線合戦場駅以北を単線化し、その際に発生したレール等を使用した。第二期工期部である利根川の橋梁部は総径間距離877.720m、中央部を東北本線岩沼駅構内に貯蓄してあった阿武隈川橋梁の架け替えにより発生した径間64.05mのトラス橋4連と、大阪城東線淀川橋梁から発生した径間48.42mのトラス橋2連を国鉄より払い下げを受け、河川敷部は橋脚中心間23.070m17連は日光線小倉川橋梁、橋脚中心間19.920m6連は日光線黒川橋梁、橋脚・橋台間12.930mは日光線(橋梁名不明)のもので、いずれも日光線単線化によって捻出した上路式ガーター橋(桁橋の一種)で架橋する予定であった〔長谷川候「熊谷線の廃止に想う」『交通東武』1983年8月30日〕。これにより、利根川橋梁予定地には29脚もの橋脚(ピア)のみが林立することになった。
軍事路線であったため、ほぼ一直線に邑楽郡大泉町を目指すルートとなっている。住民の生活路線として建設されたものではなかったので、沿線の集落、交通を考慮したルートではなかった。中奈良付近の 埼玉県道341号太田熊谷線(かつての国道407号)との交差部は盛土による立体交差の予定であったが、急を要するため平面交差とされた。これも利根川への架橋が完成したときには立体交差とするとして、当局より平面交差(踏切設置)の許可を得た。
しかし、第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合から工事の中断は直にはできず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了した。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになった。その南側が熊谷線である。なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたが、堤内の1脚のみ〔ただし堤内なので上記の29脚には含んでいない。〕が群馬県側に残っている。
東小泉駅 - 熊谷市石原付近まで複線化用地があったが、急を要するため一部の路盤は単線分しかなく、残った用地での耕作は事実上黙認され、熊谷市妻沼町の台帳に登録されていない幻の耕地ということになり、戦後の食糧難時にそこで収穫された物はヤミ食料として出回ったといわれ、熊谷線はヤミ食料の買い出しで大変混雑した。今でも水田の中にある杭までが東武鉄道の所有地である。
戦後、さらに熊谷駅から南下し、東武東上線東松山駅までの延長も検討されていた。
なお、沿線自治体からは「橋梁を完成させ全線開通」の要望はあった〔1961年 東武鉄道妻沼・大泉線貫通促進期成同盟会発足〕。東武鉄道は、詳細な調査を行う前の1969年に東武鉄道妻沼・大泉線建設の意向を表明したが、その後単独施行は困難とし新会社設立案を研究、1972年に関連地方団体の出資による新会社案を提案、1973年に熊谷線貫通の建設費は苦にならないがその後の運営が問題とし〔『写真に見る東武熊谷線』93-94頁〕、新会社案〔東武鉄道側は全線開通すると、それまで東武線を使って都心に出ていた通勤客が高崎線熊谷駅経由で都心に出てしまうという経営上の理由から全線建設に消極的だったともいわれていたが、東武鉄道は1974年の未成線敷設権放棄にあたり「第三セクターができれば、施設を無料貸与する」という条件を提示していた。〕による全通がのまれないのであれば1974年9月7日に失効する未成線部分の更新申請を行わないと沿線自治体に通達〔ペンパトロール「幻の軌道--利根川に残る橋脚」『埼玉新聞』1974年11月13日〕。しかし地元関係者からの同意を得られず、結果東武鉄道は免許を失効させることになった。
開通以来赤字続きだったこともあり、廃線の話は幾度となく東武鉄道と沿線自治体の間で話し合われ、1983年(昭和58年)6月1日廃線となった。
廃線のおもな理由は
* 営業係数が500を超えており、年間2億円余りの赤字であること。また、さらに投資を行っても改善する見込みが得られないこと。
* 上越新幹線開業に合わせた熊谷駅橋上駅化の際に、かねてからの熊谷市の要望であった、熊谷駅南口開設のための自由通路が秩父鉄道の敷地を通るため承諾が必要になった。秩父鉄道側は熊谷線にホームの一角を貸しているために、秩父寄居方面と羽生方面との列車交換ができず、複線化もできなかった。よって承諾する際には、熊谷線が借用している施設を複線化のために返還するように求めた。
そのため、南口開設の際には熊谷線は熊谷市石原付近で秩父鉄道をオーバークロスする、としたかつての協定を守るため莫大な資金が必要になったが、赤字路線である熊谷線に東武鉄道が資金を投入することはできないため、最後まで熊谷線廃止に反対していた熊谷市は南口開設か熊谷線継続か二者択一を迫られ、ジレンマに陥った。その結果、熊谷市は南口の開設、熊谷線の廃止を選んだ。
遠因としては、
* 当時、妻沼ニュータウンの開発で東武が用地買収に失敗したため、未取得地が点在して大規模な開発がいまだできない状態であり、妻沼町の人口の伸びが予想よりも鈍く、輸送人員が伸びなかった。
* 住民の要望によって開通した路線ではないので、大規模な廃線反対運動が地域で繰り広げられなかった。
などがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東武熊谷線」の詳細全文を読む




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