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東京日日新聞社 : ミニ英和和英辞書
東京日日新聞社[とうきょうにちにちしんぶん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東京 : [とうきょう]
 【名詞】 1. Tokyo (current capital of Japan) 
: [みやこ, きょう, けい]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis
: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
日日 : [ひび]
  1. (n-adv,n-t) every day 2. daily 3. day after day
: [しん]
  1. (n,n-suf,pref) new 
新聞 : [しんぶん]
 【名詞】 1. newspaper 
新聞社 : [しんぶんしゃ]
 【名詞】 1. newspaper company 
: [やしろ]
 (n) shrine (usually Shinto)

東京日日新聞社 ( リダイレクト:東京日日新聞 ) : ウィキペディア日本語版
東京日日新聞[とうきょうにちにちしんぶん]

#東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は日本の日刊新聞である『毎日新聞』(まいにちしんぶん)の東日本地区の旧題号で、現在の毎日新聞東京本社発行による毎日新聞の前身にあたる。略称は「東日」(とうにち)。
#東京日日新聞(とうきょうにちにちしんぶん)は毎日新聞社の傍系企業であった東京日日新聞社が昭和20年代に東京都で発行していた夕刊紙。略称は同じく「東日」(とうにち)。
== 概要 ==

===現・毎日新聞===

東京日日新聞は1872年明治5年)2月21日条野伝平西田伝助落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。この時に校正主任として招かれたのは、語学者で福地とともに遣欧使節団に加わった経験のある市川清流である。
1877年太政官正院文書局と官報の前身の「太政官日誌」が廃止されたことから、同新聞の「太政官記事」、「広報」の欄が官報の機能を代行する状態となった〔「同誌の廃せられてのち、明治十六年七月官報創始に至る迄約七年間は政府の官報公布期間は存せず(官報の前身『太政官日誌』)」。内閣印刷局、1943年。国立国会図書館。〕。1880年(明治13年)頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判も強まったが、その後の1883年、太政官は新たに文書局を設置し官報の刊行を開始している。
1888年(明治21年)、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年(明治24年)に長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文井上馨三井財閥の支援を受け、1904年(明治37年)には三菱財閥により買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年(明治44年)に『大阪毎日新聞』(おおさかまいにちしんぶん)の社長・本山彦一が『東京日日新聞』を買収して東京へ進出した。
『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年(明治22年)から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『朝日新聞』と並ぶ関西の有力紙となっていた。
第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。
業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(東京日日新聞・報知新聞時事新報國民新聞東京朝日新聞)の一角に数えられ、1923年大正13年)9月1日に発生した関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。1926年 (大正15年)12月25日には光文事件の失態を犯す。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東日の二強体制となり、1929年昭和4年)には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年(昭和11年)には『時事新報』を合同した。1939年(昭和14年)、東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた〔この天文館は1951年(昭和26年)、ラジオ東京(現在のTBSラジオ)のスタジオに転用された。〕。
太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった1941年12月8日の朝刊では、「東亜攪乱・英米の敵性極まる」「断固駆逐の一途のみ」の見出しで、主要紙では唯一開戦をスクープした〔後藤基治『日米開戦をスクープした男』(新人物文庫、2009年)に詳しい。〕。戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った〔一例として第一次上海事変中に敵陣に突入爆破した日本兵士を爆弾三勇士と称して勇者とし、歌まで作成して煽った。〕。
1943年(昭和18年)1月1日、東京日日新聞と大阪毎日新聞は新聞統制により題字を『毎日新聞』(まいにちしんぶん)に統一。編集機能を東京に集約して、名実共に全国紙となった。明治初期から長年続いた伝統ある「東京日日新聞」の題字は一旦消滅した。(以降、毎日新聞参照。)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東京日日新聞」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokyo Nichi Nichi Shimbun 」があります。




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