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李鴻章 : ミニ英和和英辞書
李鴻章[り こうしょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り, すもも]
 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina 
: [しょう, あきら]
 【名詞】 1. (1) chapter 2. section 3. (2) medal 

李鴻章 : ウィキペディア日本語版
李鴻章[り こうしょう]

李 鴻章(り こうしょう、リ・ホンチャン、、1823年2月15日道光3年1月5日) - 1901年11月7日光緒27年9月27日))は、中国代の政治家少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。
== 生涯 ==

=== 曽国藩期待の弟子 ===
道光3年1月5日(1823年2月15日)、安徽省合肥出身で名士李文安の次男として生まれた。兄に李瀚章、弟に李鶴章李薀章李鳳章李昭慶がいる。
士大夫の家系であり父が進士だったことから、幼少期から一族の期待を背負い勉強に励み、道光20年(1840年)に科挙一次試験に合格、4年後の道光24年(1844年)に二次試験の郷試も合格した。更に父の友人だった曽国藩の門下生となり勉強に一層励み、道光27年(1847年)の会試も合格し進士となる(同期には沈葆楨がいる)。翰林院入りしてからも曽国藩との師弟関係は続き、彼の下で庶吉士編修と順調に出世階段を昇っていった。
そんな折、咸豊元年(1851年)に起こった太平天国の乱に清が動揺すると、李鴻章の身辺にも変化が訪れる。翌2年(1852年)に曽国藩が江西省へ転勤、そこで政府の命令を受けて湖南省へ移動、湘軍を創設して太平天国との戦いを開始したのだ。咸豊3年(1853年)に李鴻章にも太平天国鎮圧のために転属命令が出され、友人の呂賢基と共に故郷の安徽省へ戻り安徽巡撫代理周天爵の幕僚となり、合肥を本拠地として団練を率いて太平天国軍との戦いに加わった。
しかし戦果は思うように上がらず、咸豊4年(1854年)1月に合肥を太平天国に占拠され安徽巡撫江忠源が自殺すると、後任の巡撫福済に仕えた。咸豊5年(1855年)7月に父の死去という苦難に遭いながらも11月に合肥を奪還したが、3年後の咸豊8年(1858年)8月に再び合肥を奪い返され、抵抗を諦めた李鴻章は家族を連れて曽国藩の下へ逃れた。湘軍を江西省に駐屯させていた曽国藩には兄の李瀚章を始め弟達も従っており、李鴻章は家族揃って曽国藩の庇護に入った。
曽国藩の幕僚として湘軍に属していた時期は官僚としての下働きのみであり、目立った活躍は見られない。しかし曽国藩は李鴻章の才能を認めていて、湖南省出身が多い湘軍で孤立しがちな李鴻章に協調を重視して厳しく接したり、軍務に携わらせ修養に心を砕き、将来は一軍を率いる将へ成長させることを友人の胡林翼に書き送っている。やがて咸豊11年(1861年)9月に湘軍が安徽省の省都・安慶を陥落させ太平天国を西から圧迫すると、反対側の東から救援要請が11月に曽国藩の元へ舞い込み、江蘇省上海から名士の銭鼎銘が上海が太平天国に攻撃される寸前で援軍を願い出ると、曽国藩は承諾して李鴻章を推薦した。かくして、李鴻章は曽国藩から独立して太平天国と対峙することになった〔梁、P53、P56 - P60、岡本、P2 - P9、P34 - P52。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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