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李斯 : ミニ英和和英辞書
李斯[り し]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [り, すもも]
 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina 

李斯 : ウィキペディア日本語版
李斯[り し]
李 斯(り し、? - 紀元前208年)は、中国代の宰相。字は通古中田勇次郎が引用する代の『書史会要』によると、「''李斯字通古楚上蔡人始皇丞相也…''」と述べている。〕。子は李由ら。法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
== 経歴 ==
の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)の人。
若い頃は小役人として楚に仕えていた。その折、李斯は厠のネズミと兵糧庫のネズミを見比べて資質の違いに気が付く。糞尿を食らうネズミは常に人影におびえるのに対し、兵糧をたらふく食らうネズミは人を恐れない。その振る舞いに「人はその居る環境だけで、賢さなど価値が決まってしまうのか」と嘆き、儒家の荀子の門を叩いた。同門にの公子・韓非がおり、共に荀子から学び、秦に入って呂不韋食客となる。呂不韋からその才能を絶賛され、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕え、その近侍になった。
李斯は政の命令で他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行い功績を立て、客卿(他国出身の大臣)となった。
紀元前237年、順調に出世していた李斯だが、この頃にという他国出身者が反乱を起こしたために、秦の国内で他国出身者の評判が悪化し、やがて他国人の追放令(逐客令)が出た。事態に苦慮した李斯は、政に嘆願書を出して追放令の撤回を求めた。この「諫逐客書」は実に理路整然とした名文で、後に文選にも収録されているほどである。政もこの名文に感じ入り、追放令の撤回を決めた。
実力者の呂不韋が自決した後、政は一層李斯を信頼するようになる。しかし、かつて李斯の同門であった韓非の著作である『韓非子』を読んだ政は感心し、「この作者と親しく出来るのなら、死んでも悔いは無い。」と言う程に傾倒していく。もし韓非が登用されてしまえば、自分の地位は危うくなる。そう考えた李斯は政に韓非の讒言を吹き込んで投獄させ、さらに獄中にある韓非に毒を渡して有無を言わせず始末した。
こうして、ライバルを蹴落とした李斯は、秦の富国強兵政策を積極的に進め、紀元前221年に遂に秦は中国を統一し、政は始皇帝となった。
秦の統一後、丞相王綰御史大夫馮劫ら重臣は始皇帝に、の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地のとして封じるようにと進言した。だが、李斯はそれに猛反対して、周が何故滅んだかの理由を具体的に述べた上、一層強い集権統治である郡県制への移行を説いた。また、政治に無用の批判を行う学者達の著書を集めて焚書を行うように進言した。
紀元前210年の秋7月に、始皇帝が巡幸の道中で崩御した。始皇帝の遺勅は「太子の扶蘇に後を継がせる」というものだったが、李斯は宦官趙高と共に偽詔を作成し、始皇帝の末子で暗愚な胡亥を二世皇帝として即位させ、扶蘇を自決に追い込んだ(一説では李斯は趙高に恫喝されて、胡亥の帝位をしぶしぶ認めたといわれる)。
始皇帝の死で基盤が揺らいだ秦帝国だが、苛斂誅求の弊は改まらなかった。翌年から陳勝・呉広の乱を初めとして反乱が続発し、国内は大混乱になった。しかし暗愚な二世皇帝は遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。李斯は右丞相馮去疾や将軍馮劫と共に、阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられず、馮去疾と馮劫は結局、自害した。
それでも李斯は諫言を重ねたが、かえって皇帝の不興を買い、さらに趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。紀元前208年、ついに李斯は捕らえられる。凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川郡の太守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えた。その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男に対して「わしは故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩に出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたという。李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わるが、一族は全て殺され、根絶やしとなった。
李斯は法家理論の完成者・韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の中国統一において最も大きな役割を果たしていた。司馬遷も、史記において李斯が道を誤らなければその功績は周公召公に比肩したであろうとしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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