翻訳と辞書
Words near each other
・ 成瀬嘉一
・ 成瀬国晴
・ 成瀬國晴
・ 成瀬大域
・ 成瀬守
・ 成瀬守重
・ 成瀬富久
・ 成瀬川
・ 成瀬川なる
・ 成瀬川土左衛門
成瀬巳喜男
・ 成瀬弘
・ 成瀬心美
・ 成瀬心美の、もうすぐオトナ時間
・ 成瀬心美のもうすぐオトナ時間
・ 成瀬悟策
・ 成瀬政博
・ 成瀬昌彦
・ 成瀬昌由
・ 成瀬映山


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

成瀬巳喜男 : ミニ英和和英辞書
成瀬巳喜男[なるせ みきお]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せ]
 【名詞】 1. current 2. torrent 3. rapids 4. shallows 5. shoal 
: [み]
 【名詞】 1. sixth sign of Chinese zodiac (The Serpent, 9a.m.-11a.m., south-southeast, April) 
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 

成瀬巳喜男 : ウィキペディア日本語版
成瀬巳喜男[なるせ みきお]

成瀬 巳喜男(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)は、東京府(現東京都四谷出身の映画監督
== 経歴 ==
1905年8月20日東京都四谷区に縫箔職人の父・利三と母・きなの間に二男一女の次男として生まれる。生まれたのが年、巳の月、巳の日だったので「巳喜男」と名付けられた。
家が貧しかったため早く腕に職をつけようと工手学校(現工学院大学)に入るが、父が亡くなって家計が逼迫したことで中退。1920年、知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社する。1922年頃から池田義信の助監督につく。しかし中々監督には昇進出来ず、後から入社した小津安二郎清水宏らが入社して3・4年で監督に昇進する中、成瀬はまだ五所平之助の下で師事を受けており、都合10年もの下積み時代を過ごした。
1930年城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たす。最初は短篇のドタバタ喜劇を手がけていたが、1931年の『腰弁頑張れ』で認められる。その後長篇作品も手がけていき、1932年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、期待の若手監督として注目された。翌1933年には『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得る。
しかし監督に昇格しても個室も与えられず、他の助監督たちとの大部屋暮らしが続いた。しかも他の監督たちが拒んだ脚本で映画を撮らされ、「これを撮ったら、次は好きなのを撮らせてやる」という約束も何度も反故にされた。そこへ東宝の前身であるPCLから引き抜きの話が入り、移籍を決心する。それを知った小津安二郎は、「それも良し」と日記に書いている。またこの時期、後の東宝で彼の映画を多数製作することになる藤本真澄とも知りあうことになる。
1934年、助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍して、初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)を監督する。次いで、中野実の戯曲『女優と詩人』と『妻よ薔薇のやうに』(1935年)を監督。後者は批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。この作品は“''Kimiko''”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となった。『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』の主演女優の千葉早智子と1937年に結婚して、長男・隆司を授かるが、3年後の1940年に離婚した。一人息子の隆司は千葉が引き取って育てた。
大佛次郎原作の『雪崩』(1937年)では黒澤明が助監督を務める。黒澤の自伝には、「成瀬さんにしても、物足りない仕事だったと思うが、それでも、私には得る所が多かった。」の記載がある。戦時下では『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』など「芸道もの」というジャンルで冴えを見せる。
戦争直後は、民主主義路線映画『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春の目ざめ』といった映画の監督を余儀なくされる。同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬は山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝松竹大映などで監督することになる。
1951年林芙美子原作、原節子上原謙主演の『めし』が高い評価を受ける。東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は一般に成瀬の最高傑作とされている。
林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして、川端康成原作の『舞姫』『山の音』、室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききった。
遺作は1967年、司葉子加山雄三主演の『乱れ雲』。1969年に直腸癌のため死去。なお闘病中、見舞いに訪れた高峰秀子に「白一色の幕を背にして高峰秀子が一人芝居をする」という奇抜な作品の構想を語ったが、実現しなかった。これについては、成瀬と多くの作品でコンビを組んだ名カメラマンの玉井正夫が後年インタビューで「その発言は、成瀬さんが死ぬ間際に弱気になっていたからこそ出た言葉ですよ。成瀬さんは、高峰秀子を個人的には好きではなかったですよ」という発言をしている。
成瀬の生誕100周年にあたる2005年には、DVDボックスのリリースや関連書籍の出版、各地の名画座での特集上映などが行われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「成瀬巳喜男」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.