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愛染明王 : ミニ英和和英辞書
愛染明王[あいぜんみょうおう]
(n) (gen) (Buddh) esoteric school deity of love
===========================
: [あい]
  【名詞】 love 
愛染 : [あいぜん]
 (n) passion
愛染明王 : [あいぜんみょうおう]
 (n) (gen) (Buddh) esoteric school deity of love
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
愛染明王 : ウィキペディア日本語版
愛染明王[あいぜんみょうおう]

愛染明王(あいぜんみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つ。梵名のラーガ・ラージャ(rāgarāja)あるいは、マハー・ラーガ(mahārāga)は、サンスクリット経典にその名は見られないが、チベットの経典や儀軌には散見され、中でもチベット密教の四大宗派に共通する後期密教のテキストである、「プルパ金剛
〔「プルパ金剛」は梵名を「キラヤ」または、「ヴァジラ・キラヤ」といい、金剛は漢訳の際には称号であり、日本密教の明王に相当する尊挌である守護尊(イダム)あるいはヘールカであることを意味する。〕
の儀軌や次第、グル・デワ・ダキニの『三根本法解説』〔
ここでは例として、『ドゥジョム・テルサル』の灌頂儀軌・次第や、『ドゥジョム・リンポチェ全集』におけるグル・デワ・ダキニの『三根本法解説』を指す。〕
〔チベット密教特有の呼び名であるグル・デワ・ダキニの三尊について、「グル」は導師を意味し、「上師」と漢訳する。チベット密教において直接的には「グル・リンポチェ」、つまりはグル・パドマ・サンバヴァ(蓮華生大師)や、その成就相であるツォチィ・トゥディを指している。「デワ」はデーヴァ、つまりは「天部の神」を意味し、チベット密教では「護法尊」や「守護尊」と呼ばれるヘールカ明王、各宗派における護法などの諸天の尊挌を指していて、ニンマ派ではグル・タポ(憤怒相蓮華生大師)やプルパ金剛のことを言う。「ダキニ」は「空行母」と訳される後期密教に特有の女尊を意味し、ニンマ派では獅子面空行母(シンハ・ムカ)や菩薩としてのイェシェ・ツォギャル仏母を指している。〕
等には、「プルパ金剛十大忿怒尊」の一尊としてこの愛染明王が登場する〔『ドゥジョム・テルサル』はドゥジョム・リンパ(1835 - 1904)のテルマ(埋蔵経)で、ネパール版の『ドゥジョム・リンポチェ全集』にも収められている。この版は、ドゥジョム・リンポチェ(1904 - 1987)の校訂本であるが、原本はドゥジョム・リンパの発見によるサテル(地下の埋蔵経)の写本であり、伝承によるとグル・パドマサンバヴァ(漢名:蓮華生大師、8 - 9世紀)の直弟子であった女性の瑜伽行者イェシェ・ツォギャルの手になるものとされている。密教では、不空三蔵の伝えた金剛頂経の十八会にわたる経典の説話のように伝承の事項であっても、それが考古学や文献学によって考証や否定の証明がなされない間は、伝承を重んじ、一応それを目安としておくことになっているので、ここでは伝承上の資料とする。チベット密教では、インド伝来のニンマ派サキャ派カギュ派の三宗派が、いずれもこの「プルパ金剛法」を歴史上のグル・パドマサンバヴァの伝授によるとし、後のインド密教の資料も伝来している。ただ、プルパ金剛という尊格は、その梵名を「キラヤ」と言い、チベット密教での通常の呼び名を「プルパ」と言う様に、一般にテントを張る際の四隅に打ち込む「杭」に相当する密教の法具である「金剛橛」(こんごうけつ;プルパ杵、漢訳:普巴杵)と呼ばれる法具に起因することは、尊格の三昧形が「金剛橛」であることや、この尊格が中央の左右の第一手に「金剛橛」を手にして描かれることからも明らかである。現在の日本密教の事相鎌倉時代に復興してできたものであるため、この「金剛橛」に馴染みがないが、グル・パドマサンバヴァと同時代の弘法大師空海の『御請来目録』によると、五鈷鈴・五鈷杵・三鈷杵・独鈷杵等の法具と共に「橛」(けつ:金剛橛のこと)の名が書かれている。現在は主に真鍮製が多いが当時は調伏を目的とするため鉄製であることが『御請来目録』の原本には但し書きとして記入されており、この空海の請来になる現物の「橛」は存在しないが、鎌倉時代初期の写しである「橛」が東京国立博物館に所蔵されていて、チベット密教の伝承する法具に近い形をしていることからも、プルパ金剛と「プルパ金剛法」の発生の古さが伺われる。
〔この項は、『秘宝 第6巻 東寺』・『秘宝 第8巻 醍醐寺』を参照。〕。
〔サキャ・パンディタ・クンガ・ギャルツェン(1182-1251)は、西蔵大蔵経の『金剛橛根本本続一分』(北京版no.78、チベット語:rdo rje phurpa rtsa bahi ygyud kyi dum bu、梵語:vajrakilaya-mulatantra-khanda)の奥書に、パドマ・サンバヴァの梵本原典と対校したと記している。また、プトン(bu-ston:1290-1364)は、サムイェー寺でインドの原典(梵本)が発見され、当時のネパールでも金剛橛(vajirakila:プルパ金剛)のタントラが発見されたとしている。〕
〔『古タントラ全集解題目録』(国書刊行会)、「4、古タントラの原典」、p24。〕
また、漢訳では真言宗五部秘経に数える『瑜祇経』(大正蔵№867:金剛智三蔵訳)を典拠とするだけではなく、宋代の訳である『仏説瑜伽大教王経』(大正蔵№890:法賢三蔵 訳〔『仏説瑜伽大教王経』は、『幻化網タントラ』の抄訳とされている。〕)や、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵№1169)をはじめ、チベット密教では、ニンマ派が伝承する旧訳『大幻化網タントラ』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)経典群等の各種の曼荼羅や、サキャ派カギュ派が伝承する新訳『幻化網タントラ』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)の曼荼羅にも、尊那仏母(准胝観音)や大日如来の守護尊(yidam:イダム)として、穢跡金剛(大力金剛)〔日本密教では、異名の「烏枢沙摩明王」の名がよく知られていて、穢跡金剛と「烏枢沙摩明王」が異名同尊の同じ尊挌とされるが、中国密教の「唐密」(タンミィ)では異名異尊の別々の尊挌とされ、チベット密教でもその働きや色によって名前や尊挌が異なるとする。また、穢跡金剛の別名である「大力金剛」(マハ・バーラ:maha bala)は、後期密教における穢跡金剛の通名であるが、清代の密教(チベット密教)においてもよく信仰されており、縁あってそれが戦前の日本にも請来されて、一面二臂の尊像が愛染明王の一番札所でもある『勝鬘院』(愛染堂)の境内にある祠に祀られている。〕や、不動明王らと共に、梵名のタキ・ラージャ(takki raja)の別名でも登場する。
覚禅鈔』には、愛染明王の異名として「吒枳王」(タキ・ラージャ)を挙げ、『妙吉祥平等秘密最上観門大教王経』(大正蔵№1192)には、このタキ・ラージャが「大愛明王」と訳されており、その真言が「ウン・タキ・ウン・ジャク」とあるので、那須政隆はタキ・ラージャを愛染明王であるとしている。〔
「大愛明王」をあえて梵語に還元すると、「大 = マハー」と「愛 = ラーガ」で、「大愛明王 = マハー・ラーガ」(maha lagar)とすることもできる。更に、木村秀明も『幻化網タントラの諸尊』の中で「タキ・ラージャ」を愛染明王であるとしている。なお、その持ち物から、図像学的には「タキ・ラージャ」を降三世明王とする説もある。〕
〔『瑜伽大教王経所説の曼荼羅について』(智山学報)、pp.49-50。〕
〔「『幻化網タントラの諸尊』曼荼羅の構成尊」、pp.121-122。〕
〔『大理国時代の密教における八大明王の信仰』(密教図像 第26号)、pp.55-56。〕このように数々の経典にも登場するので、愛染明王はインド密教においてもポピュラーな忿怒尊であったことが伺われる。
ネパールにもインドから直接伝わった「ネパール密教」があり、後期密教の教えの一つとしてクク・ラージャ(西蔵名:ククリパ)の系統の『幻化網タントラ』が伝えられている。「ネパール密教」は学問的な調査が進んでいないので未知の部分が多いが、この『幻化網タントラ』の大タンカである曼荼羅には三面十二臂のタキ・ラージャである愛染明王が「持明院」に登場する。その身は赤色で十二臂で二足、顔の三面のうち中央が赤色の顔、尊挌の右側が緑色の顔、尊挌の左側が青黒い色の顔をしていて、それぞれに五智の宝冠を被っている。中央の左右の第一手で大日如来の「転法輪印」を結び、右の第二手には「金剛杵」、左の第二手には「金剛鈴」を持ち、右の第三手には「蓮華」、左の第三手には「牽索」を持ち、右の第四手には「矢」、左の第四手には「弓」を持ち、右の第五手には「金剛鉤」、左の第五手には甘露である不死のアムリタを満たし如意宝珠を浮かべた「髑髏杯」(カパラ)を持ち、左右の第六手で「大三昧印」を結んでいる。持物が日本の愛染明王と完全に一致するので、今後の図像学的な研究対象となると考えられる。〕
なお、この「プルパ金剛」の真言と印は、日本最古の次第書である『寛平法皇の次第書』(別名;小僧次第)にも尊名は無いが梵字で真言が登場し印相も述べられており〔『寛平法王御作次第集成』を参照のこと。現在の次第では短い真言が伝えられて、通称を「キリ呪」とも言う。【キリ呪】:日本密教「オン・キリキリ・ウン・ハッタ」、チベット密教「オン・キリキラヤ・フン・パット」。〕、古次第に共通の重要な作法ともなっているので、愛染明王は日本密教とチベット密教を結びつける尊挌の一つに挙げることができる。
愛染明王の密号は『離愛金剛』〔『密教大辞典』、「愛染明王」、p5。〕で、『白宝口抄』〔『白宝口抄』(びやくほうくしょう)は『白宝口鈔』とも表記し、13世紀に東寺の観智院亮禅宝蓮華寺亮尊による共著として、真言密教における事相と図像の百科事典であり、167巻からなる。亮禅は西院流の能禅より伝法潅頂を受け、後に東寺の二長者(にのちょうじゃ)をつとめ、1279年には東寺の菩提院の開山となった人物。〕には「離愛金剛は即ち愛染明王なり」としていて、ここで「離」は生死のとなる因子の煩悩や渇愛を離れる意味で、「愛」は菩提(覚り)の妙果を愛する意味であるので〔『密教大辞典』、「愛染明王」、p5。〕、『離愛金剛』は「愛欲(煩悩)を離れ、大欲に変化せしむ」の意味となる〔『図説真言密教のほとけ』、「愛染明王」、p137、p140、pp.145-146。〕。
== 概説 ==
日本密教の愛染明王は、『金剛頂経』類に属するとされる漢訳密教経典の『瑜祇経』に由来し、この経典は正式名称を『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』〔サンスクリットの原典は発見されていない。〕といい、同経典の「愛染王品第五」に愛染明王が説かれている。その修法は、息災・増益・敬愛・降伏の『四種法』の利益をもって記述され、その功徳は、「能滅無量罪 能生無量福」(よく無量の罪を滅して、よく無量の福を生じる)とも説かれている。
また、同経典の中で「三世三界中 一切無能越 此名金剛王 頂中最勝名 金剛薩埵定 一切諸佛母」(三世三界の中にあって、他の一切が誰もこの尊を越えることができ無いので、この尊の名前は金剛の王とされ、『金剛頂経』の中で最勝の名前であり、教主である金剛薩埵がこの尊を定めて、一切の諸仏の母とした)とも讃えられていて、これに基づいて金剛界で最高の明王と解釈される場合がある。
これに対して不動明王は胎蔵界で最高の明王と解釈される場合があり、たとえば東京都の金龍山浅草寺や、千葉県の成田山新勝寺等では両界の最高の明王として不動明王(胎蔵界)・愛染明王(金剛界)の両尊が祀られている。この日本密教における大日如来如意輪観音如意宝珠等を中心として、左右に不動明王と愛染明王の二体を祀る形式は非常に古く、他にも京都高野山の古刹の寺院などに現在も少なからず見かけることができる。
歴史的な資料としては、空海と同時代の人物であるインドの密教行者グル・パドマサンバヴァが、国王ティソン・ディツェンの勅命によりチベットに初めて建立した国立の大寺院であるサムイェー寺は、四面二臂の『大日経』系の姿をとる大日如来を中心とする、三層から成る立体曼荼羅を実現させた密教寺院であるが、9世紀当時のバセルチン(dBa gSal snang)が著したチベットの歴史書である『バシェー』(dBa bzhed)によると、寺の入り口の左右には守護者である門神として、不動明王(アチャラ・ナータ)と並んで愛染明王(タキ・ラージャ)〔ここで愛染明王とする「タキ・ラージャ」(takki raja)は、チベット語では「hDod pahi rgyalPo」とする。これを図像学的には降三世明王とする研究があることは先に述べた通りである。〕〔『中央チベットにおける八大菩薩と併置される仏と守門神』(密教図像 第26号)、pp.19-23。〕が祀られていたという。サムイェー寺は歴史の変遷の中で立替がなされ、現在はチベット動乱後にディンゴ・ケンツェ・リンポチェの資金援助で再建されたものが建っているが、チベット仏教で人気のある馬頭観音金剛手菩薩(バジラ・パーニ)に換えられてしまっている。
日本では、この不動明王と愛染明王の両尊を祀る形式が1338年頃に成立した文観の『三尊合行秘次第』〔『三尊合行秘次第』は、別名『一二寸合行秘次第』ともいう。〕に始まるとされている〔「『文観著作聖教の再発見』三尊合行法のテクスト布置とその位相」(名古屋大学文学研究科)、p120。〕。この説に基づくならば、現在、福山市にある円光寺・明王院〔円光寺は、開基の時の名称は「常福寺」という。〕は、大同2年(807年)に空海が開基したと伝えているが、この寺の境内にある五重塔(国宝)は貞和4年(1348年)に建立され、初層に大日如来を本尊として左右に不動明王と愛染明王を祀っているので、日本におけるその初期の例として挙げることが出来る。ただ、文観自身はこの書
を書写したとしており、密教の事相上では『三尊合行秘次第』の本尊となる如意宝珠は特殊な形をしていて「密観宝珠」〔「『密教工芸』神秘のかたち」(奈良国立博物館)、p17-図版10、p62-図版10、p63-図版11。
〕とも呼ばれ、如意宝珠形の下に五鈷杵を配した舎利塔仏舎利を入れたものであるところから、これを如意輪観音の三昧耶形であるとして、空海の直弟子に当る観心寺の檜尾僧都実恵や、醍醐寺の開祖理源大師聖宝の口伝にまで遡ろうとする考え方もある〔『両頭愛染曼荼羅の成立に関する一考察』(印度學佛教學研究:第六十巻第二号)、pp.615-618。〕。
ちなみに、高野山には空海の請来になる品物を保管している「瑜祇塔」という建造物がある。この名は、愛染明王と同じく『瑜祇経』を典拠としているが、その正式名称は「金剛峯楼閣瑜祇塔」で、高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の呼び名は、この「瑜祇塔」に由来する。〔『高野山』(総本山 金剛峯寺)、p21。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「愛染明王」の詳細全文を読む




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