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弘南バス : ミニ英和和英辞書
弘南バス[こうなんばす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 

弘南バス : ウィキペディア日本語版
弘南バス[こうなんばす]

弘南バス(こうなんバス)は青森県弘前市に本社を置くバス事業者である。津軽地方を中心に運行されている。
== 沿革 ==
弘南鉄道では平賀駅を利用する山手一帯(旧・尾崎村、旧・町居村、旧・竹館村)の乗降客の利便を図るため、1931年から8人乗りバスの直営運転を開始した。赤字のため1934年に運行休止となり、平賀駅前の個人に運営を委託し運行再開したが、さらに経営状態を悪化させてしまい再度の運行休止となった。
そこで1936年に直営に戻し、自動車部の拡大路線に方針を転換した。まずは平川バス(弘前 - 平賀 - 町居間、弘前市内線)を買収し、体制を建て直したのちに運行を再開した。翌年には上原バス(黒石 - 大鰐間)を買収し、平賀駅前にバス車庫を建設してタクシー部も開業、沿線一帯の交通を独占した。1938年4月1日時点でのバス路線延長が58.4kmとなり、内訳は平賀 - 唐竹間5.2km・弘前 - 尾崎間17.4km・弘前駅 - 茂森間3.8km・弘前 - 蔵館間16.1km・川部 - 蔵館間15.9kmであった。
戦時下におけるバス統制の国策に乗って買収はさらに加速し、1941年3月までに弘前市を中心に中津軽郡南津軽郡の交通はほぼ弘南鉄道に掌握された。この当時は戦時下で、車輌の入手難・燃料の配給規制から業績の伸び悩みがあり、本業の鉄道経営も容易ではなかった。株主の間にはバス部門の事業拡大に対して前途を憂慮する意見が広がり、1941年4月17日の臨時株主総会において自動車部の分離を決議した〔自動車部の分離は弘南鉄道経営陣としては本意ではなく、臨時株主総会も株主に押し切られて止む無くの開催だった。〕。この時の決議内容は、先に買収交渉が成立していた弘前乗合自動車会社(弘前バス)に弘南鉄道の自動車運輸事業を有償譲渡し、新たに弘前乗合自動車株式会社(のち会社名を弘南バス株式会社と改称)を設立し、3分の2の株式を弘南鉄道が取得、残る3分の1を弘南鉄道の重役個人が取得するというもので、初代社長は当時の弘南鉄道社長が兼務した〔弘前バスへの売却という形態を採っているものの、実際には弘南鉄道の子会社としてスタートした。これは弘南鉄道の株主の意向には配慮するものの、これまで多額の投資をしてきたバス事業は手放したくないための折衷策であった。その後、業績の拡大に伴って資本の増大を図る必要性があり、利益の還元は利用者全体に浸透させるべきとの2代目社長の考えから、少人数による株式の占有を廃し、役員の協力を得て1952年1月に持ち株を公開した。現在は弘南バスと弘南鉄道との間に役員の兼務はあるものの、直接的な資本関係はない。〕。
戦局の悪化により物資が窮乏し、1941年のガソリンの配給停止によって木炭車・薪車・ガス車での運行を余儀なくされた。1943年には燃料・車輌部品〔当時の車輌は配給されるバス以外はシボレーフォード等の中古外車で、大東亜戦争太平洋戦争)の開戦と同時に純正部品の供給がストップし、戦局の悪化で代用可能な部品も底をついた。車内のガラスが割れても配給ガラスがないので板を打ちつけて凌いだ。〕が入手困難となり運行休止路線が続出した。戦時末期には運行可能車輌が13輌にまで落ち込んだことから、最小限度確保路線として「田代線」「百沢線」「大鰐線」に各2輌、「相馬線」「鬼沢線」に各1輌、黒石管内に計5輌を割り当てた。終戦後はインフレで経済が大混乱に陥った。諸物資が払底し、同時に資金封鎖が行われたため、事業継続が困難な状況に置かれ、何度か運行不能の危機に直面し、ダイヤの縮小や路線の運休に追い込まれた。1948年に物資の統制が一部解除されたことから燃料や資材が徐々に出回りだし、休止中の路線の運行を順次再開した。
中弘南地区の交通利便に比べて整備が遅れていた板柳地区を開拓するため、1951年に板柳営業所を開設した。これより先の1950年に板柳バスが設立されていたが、諸事情から経営不能の状態に陥ったため、弘南バスが経営の委託を受け、経営再建とともに合併準備を進め、1953年に板柳バスを買収した。これが西北五地区への進出の基盤となり、その後「板柳 - 鯵ヶ沢線」の運行を開始した。
この時期、五所川原市北津軽郡西津軽郡津軽鉄道自動車部(津鉄バス)に統合されていた。1953年に弘南バスは「弘前 - 五所川原線」で津鉄バスとの相互乗り入れを成立させ、西北五地区の路線拡大に乗り出した。そんな中、津軽鉄道の企業不振からバス部門を売却することになり、弘前電鉄も買収に乗り出した〔1950年代に入ると、弘前電鉄ではバス部門設置の動きがあった。また、弘前市では市営バス設立に向けて準備が進んでいた。弘南バスでも弘前市内の路線拡充が利用者から求められていた。このような背景から弘前市内路線の免許申請が3社から同時期に請願されたが、仙台陸運局による聴聞会や運輸省に於ける公聴会を経て、1956年6月に弘南バスのみに認可する裁定が下された。〕ものの、津軽鉄道との折衝により1955年に弘南バスとの買収統合が成立した。これにより、東津軽郡を除く津軽地方一体に路線網を持つことになった。また、同時期に「弘前 - 大館線」で秋北バスとの相互乗り入れでの運行を開始し、これが初の県外への定期路線となった。
1985年の東北新幹線上野駅延伸に合わせ、弘前から盛岡駅での新幹線接続を目的に高速バスヨーデル号」(弘前 - 盛岡線)の運行を国鉄バス(→JR東日本バス→JRバス東北〔2014年2月28日をもって運行休止〕)・岩手県北バス岩手県交通の4社共同で開始した。「ヨーデル号」は地元客や帰省客に受け入れられ、社内でも有数のドル箱路線となった〔2002年の東北新幹線八戸駅開業に合わせ、JR東日本は弘前駅発着の特急つがる」の運行を開始し、それまでの「ヨーデル号」の利用客の多数がJRに流れてしまい、現在はかなり厳しい状況にある。〕。1986年には京浜急行電鉄(現:京浜急行バス)と国内初の共同運行による夜行高速バス「ノクターン号」(弘前 - 東京線)の運行を開始し、それまでの国鉄夜行列車に較べて、時間を有効に活用でき、運賃面でも格安なことから利用者からの支持を得た。これが高速バス路線網を広げるきっかけとなって、「ヨーデル号」「ノクターン号」は五所川原発着便が設定され、青森発着の「あすなろ号」「ラ・フォーレ号」の運行を開始した。その後、仙台便や東京昼行便の開設や「弘前 - 青森線」「五所川原 - 青森線」や「南軽号」(弘前 - 八戸線)などの短距離路線の開拓〔「弘前 - 青森線」「五所川原 - 青森線」は東北道経由で運行、「弘前 - 八戸線」(南軽号)や「弘前 - 大館線」は他社と共同運行するが、いずれの路線もJRとの競合で利用が伸び悩み、相次いで撤退するなど、短距離の高速路線は不調に終わった。〕が行われた。
マイカーの普及や少子化が進み、郡部を中心に利用者のバス離れが広がりだした。状況を打開するため、一部の不採算地域を子会社の弘南サービスに移管し、地域に密着した経営で乗り切ろうとした〔2006年4月に弘南バスに再移管している。〕。また、一部の路線では対象の沿線住民がバス回数券を購入することでバスの運行経費を負担する住民参加型路線を設定するなど、赤字路線対策にも積極的だった。しかし、利用者の減少に歯止めはかからず、沿線自治体の財政悪化によって補助金が削減されるなど周囲の状況が悪化、関係各所より合理化や経費削減が求められた。これまで中古車の導入は大型車のみであったが、これを中型車やミニバス車輌にまで広げた。また、燃料費削減のため、赤字路線への小型車やマイクロバス車輌の導入や駐車(待機)時のアイドリングストップの徹底も行うなどの対策を講じた。
従来、弘前管内路線のうち、浜の町・駒越・茂森系統の市街から郊外へ向かう路線(旧・郡部線、以降は郊外路線と記す)の往路は上代官町経由で、復路は弘前バスターミナルが終点で弘前駅を経由せず、運行本数の少ない郊外路線に乗客が集中しないよう配慮されていた。しかし、乗客の減少から中型車や小型車の導入が進む状況から統合しても定員オーバー等の影響はないと判断し、1998年に並行市内線〔対象路線は「浜の町経由 弘前駅 - 藤代営業所線」「弘前駅 - 石渡線」「駒越経由 弘前駅 - 藤代営業所線」「弘前駅 - 四中校線」。〕の減便に踏み切った。郊外路線の運行経路を市内線と同様に往路は弘前駅 - 大町経由に、復路の終点を弘前駅に変更し、駒越・茂森系統の路線は桜大通り経由から本町経由に変更、茂森系統の路線では「市役所前公園入口」停留所を観光館側から公園外堀側に変更し、郊外路線が運行されている時間に近接している並行市内線の運行を間引きした。また、車両配置区所の見直しを行い、1998年に高崎営業所を廃止し、藤代営業所では規模を縮小し藤代車庫とした。また、バス待機所となっていた旧・和徳営業所では車両配置を再開し和徳車庫へ再編した。これにより弘前管内は弘前営業所が一元管理する体制となった。その後、赤字路線の廃止や運行本数の減少から更なる合理化を図るため、2008年4月に金木案内所、2009年4月に桜ヶ丘案内所・板柳案内所・大鰐車庫の車両配置をとりやめた。
2000年代に入ると関係自治体との協議により、路線の統合や不採算路線の減便や廃止、一部路線での運賃値上げも実施するに至った。そこへ燃料費の高騰が追い討ちをかけ、2008年12月に弘南バス全線(高速バスや100円バス等の一部路線と青森市営バスと競合する区間を除く)での運賃値上げを実施した。
これまで車内放送機器はテープ式(8トラクラリオン製)で車内アナウンスは女性社員による自社製作であったが、2008年6月から7月にかけて音声合成方式〔在青の一般路線バス事業者としては最後の導入である。〕(レシップ製)に切り替え、車内アナウンスの製作を外部事業者に委託した。また、この更新によって、車内アナウンス装置と運賃表示器・整理券発行機が連動する様になり、乗車時に車外スピーカーでの行先案内を開始した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「弘南バス」の詳細全文を読む




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