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幸田文 : ミニ英和和英辞書
幸田文[こうだ あや]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

幸田文 : ウィキペディア日本語版
幸田文[こうだ あや]

幸田 文(こうだ あや、1904年明治37)9月1日 - 1990年平成2年)10月31日)は、日本随筆家小説家日本藝術院会員。
==来歴==
作家の幸田露伴、母幾美(きみ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)に生まれる〔幸田文 『北愁』 講談社文芸文庫、2013年、年譜〕〔『幸田文展 図録』 世田谷文学館、2013年、年譜〕。1910年、5歳のとき母を、のち1912年、8歳のとき姉の歌を失う。1912年に露伴が児玉八代(やよ)と再婚。1917年に寺島小学校を卒業。東京女子高等師範学校受験に失敗するが、八代のつてにより女子学院に入学〔由里幸子 「不和の家」「文豪の記録」『女性作家評伝シリーズ13 幸田文』 新典社、2003年〕〔「落第と入学」『草の花』講談社現代文庫〕。その年の夏休みから露伴による生活技術の教育を受けるようになる〔〔〔義母八代がリウマチのため家事が困難になってきていたことも理由〕。1926年、22歳のときに弟の成豊(しげとよ)も失う〔〔。
1928年、24歳で清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚し翌年娘の玉(青木玉)が生まれる〔〔。しかし、結婚から8年後、家業が傾き廃業〔村松友視 『幸田文のマッチ箱』〕。1936年、築地で会員制小売り酒屋を営む〔東京朝日新聞でとりあげられた。昭和11年12月26日号記事「酒仙・露伴博士の 令嬢が酒店を開業 奥様業から街頭に」〕も1938年に離婚、娘の玉を連れ父のもとに戻る〔〔。戦時中には、露伴の生活物資の確保のために働き(その一端は青木玉の回想記『小石川の家』(講談社のち文庫化)に詳述されている)、少女時代から露伴にしこまれた生活技術を実践していった。
1947年、露伴没後に、露伴の思い出や看取りの記を中心にした『雑記』『終焉』を発表。のち『父』、『こんなこと』、1949年には幼少時の思い出を書いた『みそっかす』を連載するなどの随筆集を出版し注目された。しかし、1950年に断筆宣言〔夕刊毎日新聞、1950年4月14日号記事「私は筆を断つ」〕をし、翌年柳橋芸者置屋に住み込み女中として働いたが、病のため約2ヶ月で帰宅する〔。そのときの経験をもとにして1955年より連載した長編小説『流れる』(1956年刊行)で1956年に第3回新潮社文学賞受賞、1957年に昭和31年度日本芸術院賞を受賞した〔〔成瀬巳喜男によって映画化された『流れる』は1956年に第11回芸術祭文部大臣賞を受賞している〕。また、『黒い裾』で1956年に第7回読売文学賞受賞、『闘』で第12回女流文学賞を受賞した〔。1976年に日本芸術院会員となった〔。
1965年の夏に、奈良斑鳩町法輪寺井上慶覚住職から、消失した三重塔の再建について話を聞いたことをきっかけに、官公庁への嘆願・申請や募金活動に尽力。その後自らも奈良に移り住み作業にも加わるなどし、1975年に再建された〔岩波書店版『幸田文全集 第23巻』 年譜〕。
1988年5月に脳溢血により自宅で療養、1990年10月31日心不全のため死去、〔。
従四位勲三等瑞宝章追贈〔岸睦子『日本の作家100人 幸田文』 p.201〕〔『新潮日本文学アルバム 幸田文』 p.94〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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