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平教盛 : ミニ英和和英辞書
平教盛[たいら の のりもり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

平教盛 : ウィキペディア日本語版
平教盛[たいら の のりもり]

平 教盛(たいら の のりもり)は、平安時代末期の平家一門の武将平忠盛の四男。平清盛の異母弟。母は藤原家隆の娘(待賢門院に仕えた女房)。平通盛平教経の父。
保元の乱平治の乱で兄の清盛に従って戦う。邸宅が六波羅の総門にあったことから門脇殿と通称され、さらに平氏政権での栄達に従って門脇宰相・門脇中納言と呼ばれた。鹿ケ谷の陰謀事件では娘婿の藤原成経が罪に問われたため、その赦免に奔走した。治承・寿永の乱では主に後方の守りについた。一ノ谷の戦いで嫡男の通盛を始め子息を失う。壇ノ浦の戦いの敗戦の中で兄の経盛とともに入水した。
== 生涯 ==
保元元年(1156年)の保元の乱では兄・清盛に従って戦っている。功により院の昇殿を許された。
平治元年(1159年)の平治の乱では清盛が後白河法皇二条天皇内裏から奪回して、内裏に籠る源義朝藤原信頼を攻撃する際に、清盛の嫡男の重盛、弟の頼盛とともに大将として六波羅を出撃。重盛が侍賢門、頼盛が郁方門を攻撃し、敗走したとみせかけて源氏を内裏からおびき出し、その間に内応者に陽明門を開けさせて内裏を占領する働きをした。退路を失った義朝は六波羅へ総攻撃をしかけるが、力尽きて敗走。乱は清盛の勝利に終わった。
清盛が後白河院と距離を置いたのと対照的に、母が仕えた待賢門院所生という縁から後白河院に接近し院近臣として活動した。ただし正室腹の異母弟・頼盛(池殿)に比べると、清盛に従順であったという〔「(清盛は)兄弟多クオハシケル中ニ、コトニ此人ヲバ糸惜(いとほしく)オボシテ、一日モ見ネバ恋クオボツカナケレバトテ、六波羅ノ惣門ノ脇ニ家ヲ造テ据置給ヒタレバ、異名ニ門脇宰相ト申ケル也」(『源平盛衰記』巻六「丹波少将被召捕」)〕。
乱後、正四位下常陸介に叙任されていたが、応保元年(1161年9月15日、二条天皇を廃して憲仁親王(後の高倉天皇)擁立を図ったとの容疑のため解官される。これは後白河上皇と二条天皇との対立の巻き添えを受けたもので、院に近い平時忠(清盛の義弟)や藤原成親も同時に解官されている。なお、翌年には能登に復職している。
仁安3年(1168年)に正三位参議に進み、門脇宰相と呼ばれた。
安元3年(1177年)4月、延暦寺大衆が院御所へ強訴に押し寄せた際、警固のために出動。同年6月、鹿ケ谷の陰謀事件が発覚。首謀者は院近臣の藤原成親西光俊寛らで、このうちの成親の嫡男の成経は教盛の娘婿だった。娘は身重でもあり、困り果てた教盛は成経とともに清盛の元へ参り、寛大な処置を願ったが、清盛は対面すら許さず成経の断罪を命じた。これに対して、教盛は出家して隠遁するとまで言いだし、それならばとようやく成経の身柄を教盛に預けることを許した。
関係者の処罰が決まり、成経は備中国次いで遠く薩摩国鬼界ヶ島へ流されることになった。娘婿のこと哀れに思う教盛は懐妊した中宮徳子の安産祈願として大赦を願い出て、清盛もこれを許し、翌治承2年(1178年)に成経は赦免されて京へ帰った。
治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵計画が露顕。園城寺に逃げ込んだ以仁王追討の大将の一人に任じられる。
治承5年(1181年)閏2月、清盛が死去。平家は衰運に向かうことになる。
養和元年(1181年)10月、北陸道の情勢が不穏になると、教盛は兄弟の頼盛、経盛とともに洛中の守りを担当した。嫡男の通盛は越前守で北国の守りを担当しており、源義仲の軍と合戦を繰り返していた。
養和2年(1182年)、従二位権中納言に進み、門脇中納言と呼ばれるようになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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