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尾崎宮 : ミニ英和和英辞書
尾崎宮[おざき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)

尾崎宮 ( リダイレクト:ショウ王 ) : ウィキペディア日本語版
ショウ王[しょうおう]

(しょうおう/じょうおう〔「」の字はこの人名のために作字されたものらしく、字書類にも見出すことが出来ない字であるという(笹原宏之)。そのために本来の読みは不明とすべきであるが、王を対象とした人名事典・索引においては「ショウ」ないし「ジョウ」という読みが与えられていることが多く、本項の記事名においてもこの慣例に倣うこととした。〕、生年不詳 - 延元3年/暦応元年(1338年6月)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての皇族公卿。出自に関しては確証を得ないが、高倉天皇玄孫惟明親王の曾孫とする通説に従えば、父は醍醐宮大豊王か。南朝に仕え、官位正三位非参議尾崎宮(おざきのみや)〔惟明親王の子孫は美濃国との所縁が深かったと考えられ、「尾崎宮」の称号も同国各務郡内の地名(現在の岐阜県各務原市尾崎)に由来するとされる。〕・弾正尹宮とも号した(後述)。
== 経歴 ==
元弘3年/正慶2年(1333年)5月無位無官から従三位に直叙されて公卿に列し、同年6月弾正尹に任じられ、8月治部卿を兼任する。建武元年(1334年)12月散位に移るが、同2年(1335年)1月正三位に昇叙された。『太平記』によると、中先代の乱の後に鎌倉足利尊氏を討伐するため、同年11月に派遣された東征軍のうち搦手の副将として、大智院宮洞院実世らとともに東山道を下ったが、12月に新田義貞率いる東海道軍の敗戦(箱根・竹ノ下の戦い)を受けて引き返し、翌建武3年(1336年)1月後醍醐天皇の避難していた近江東坂本に到着した。同年8月には、美濃の関・迫・北野(岐阜県関市岐阜市)において足利方の鷲見忠保東常顕らと交戦するも、翌月に本拠の八代城(岐阜市)が陥落して敗退している。後醍醐の吉野潜幸の際、これに同行したらしく、延元3年/建武5年(1338年)6月に出家、同地で薨去した〔東京大学史料編纂所蔵の異本『南朝公卿補任』には、源氏賜姓されたことや享年が34であったことなどが記されるが、いずれも史料的根拠に欠ける。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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