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小中華思想 : ミニ英和和英辞書
小中華思想[しょうちゅうかしそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中華 : [ちゅうか]
 【名詞】 1. China 2. Middle Kingdom 
中華思想 : [ちゅうかしそう]
 (n) Sinocentrism
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal
思想 : [しそう]
 【名詞】 1. thought 2. idea 3. ideology 
: [そう]
 【名詞】 1. conception 2. idea 3. thought 

小中華思想 : ウィキペディア日本語版
小中華思想[しょうちゅうかしそう]
小中華思想(しょうちゅうかしそう)は中華思想で、中国が自分を文明の中心に据えて周辺諸国を野蛮人と見たように、自分たちだけが文明国で、周辺の野蛮人に比べて、文明の水準が高いと自負した思想。しかし、一方では漢族の中国を理想化する様相を帯びたりもする。 これは韓国、日本、ベトナムに共通的に現れた。
==概略==

小中華思想の元となった中華思想は儒教に裏付けられた漢民族の文化優越主義から始まり、地理的世界観、政治的世界観も併せ持つに至る。中華思想の基で中国王朝は周辺諸民族を他者化(自他の区別をつけるもの)し、夷狄(文明化しない野蛮人)、禽獣(獣に等しい存在)と蔑む一方、冊封体制事大朝貢体制)によってその世界観を具現化し、また同時に夷狄の教化に当たった。
中国王朝のこうした世界観は周辺諸国では否定的に受け取られることが多く、ベトナムでは対外的君主と国内的君主を分離した上皇制度を導入し、皇帝がその諱(本名)を知られて中国皇帝の臣下として扱われるのを避け、皇帝が早い段階で後継者に皇位を譲って太上皇(上皇)となり、宮廷内の最高意思決定と中国皇帝に対する朝貢を行い、内政一般など国内の政治は皇帝が担当していた。このため、中国への朝貢は上皇が「国王」を名乗って行っており、中国正史とベトナムの正史が伝える国王の在位にはずれが生じているといわれている。

また日本でも聖徳太子の書「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」、あるいは南北朝期の懐良親王が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。

それに対し朝鮮では中国王朝に従い、積極的に中華文明つまり儒教及びそれに伴う華夷観を受容し、中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択した。このような朝鮮の態度から中国は朝鮮を「小中華」と呼んだ1 。朝鮮は本来の華夷秩序においては夷狄に相当するものであったが、自らを「中国王朝と共に中華を形成する一部(小中華)」と見なそうとしたのである。朝鮮の中国王朝に対するこうした姿勢は政治的には事大、文化的には慕華(中華を慕う思い)となり、政治的文化的に中華に従うものとして整合性の取れたものであった。しかし朝鮮は時には漢民族以外の中国王朝(金や元、清など)に事大を強いられることもあり、これを事夷と呼び、華夷観と政治的現実の狭間で苦しめられることとなった
一方、自らを小中華と見なすことは、周辺諸国を野蛮な夷狄、禽獣として他者化することも意味していた。この自らを華、周辺諸国を夷とする姿勢は、文化的優越主義に止まらず政治的地理的世界観にも表れ、現実はどうであれ「朝鮮は中国王朝と共に世界の中心をなし、周辺諸国を従属させている」と解釈しようと志向した。例えば李氏朝鮮初期の1402年に製作された「混一疆理歴代国都之図」では、中国が世界の中心に位置し、朝鮮は実情よりかなり拡大された形で描かれている。それに対し日本、琉球、東南アジアはかなり小さく描かれ、方角も誤って描かれている。女真族の居住地であった中国東北地方は曖昧なまま処理されている。
つまりこの地図が描き出した世界観は、と李朝が中華でありそれ以外の地域はであるとするものであった〔河(2008)〕。こうした他者化の論理は、時に国内にも向けられ、中華文明を身につけていない者は同じ朝鮮人でも差別化されることに繋がった。李朝後期の両班達は、自身を「を識り、漢詩漢文を巧みに操り、儒教の経典に精通した中華文明の体現者」と捉え、一方庶民を「夷狄禽獣の類い」と階層的差別意識を露にしていた〔山内(2003)〕。
小中華思想の中には、中華思想と同じく、包容の論理が含まれていた。つまり独自の冊封体制、朝貢体制を整え夷狄との交流を図り、あるいは帰化人を受け入れて同化させるといった面も見られた。中華思想において、この他者化と包容、相反する二つの側面は、国力が充実しているときは異民族に開放的になり包容の論理が表れ、政治的に異民族から強い圧迫を受けているときは差別化が強調される傾向を持っていた。小中華思想においても同様の現象が現れ、政治的逆境に置かれた時期こそ文化的優越主義の側面が強く表れることになった。〔
朝鮮のこうした積極的な中華文明受容の姿勢は、中華に同化することを目指したものであることから、同時に朝鮮独自の文化の発展を阻害することになる。一例を挙げると、李朝前期の世宗が朝鮮独自の文字、ハングルを制定しようとしたとき、官僚を含む知識人階級から「捨中国自同扵夷狄」(中国を捨て夷狄に同化する)行為だと反発を受け、ハングルは李朝末期に至るまで諺文と呼ばれて蔑まれ正規の文字になることはなかった。こうした中華文明を尊び独自性を排除しようとする考えは儒者共通のものだが、小中華思想を掲げ中国に倣って科挙体制を取り入れ、儒教を支配理念としていた朝鮮において特に顕著に表れることになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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