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宇多田ヒカル : ミニ英和和英辞書
宇多田ヒカル[うただ ひかる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

宇多田ヒカル : ウィキペディア日本語版
宇多田ヒカル[うただ ひかる]

宇多田 ヒカル(うただ ヒカル、1983年1月19日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。本名、宇多田 光(うただ ひかる)。愛称はヒッキーHikki)。
ニューヨーク州出身で、デビュー当時はアメリカと日本の二重国籍だったとされるが、自身は生粋の日本人と公言している〔出生地がアメリカだったため、歌手デビュー後まで日本とアメリカの二重国籍だったと本人が発言している。1985年1月1日の改正国籍法施行日に20歳未満であった者は、22歳に達するまでに国籍の選択をしなければならないが、経過措置により、期限までに選択しない場合、日本の国籍の選択の宣言をしたものとみなされるものの、アメリカの市民権には影響しない。その後については公式の発表はない。〕。
2000年頃の日本のR&Bブームに大きな影響を与えた〔宇多田ヒカル - Yahoo!ニュース紹介文 〕。日本の音楽史上、最多の売り上げを記録した『First Love』を筆頭に、オリジナルアルバム歴代売上の上位トップ2を独占している。
== 来歴 ==

=== 1993年 - 2000年 ===
米国居住時代の1993年U3(父:宇多田照實と母:藤圭子とのファミリーユニット)名義で『STAR』を発表。また同じく米国で1997年Cubic U(宇多田家の3の意味)としてソロシングルClose To You」とアルバムPrecious』を発表〔なお、日本では1996年に「藤圭子 with cubic U」としてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発表、1998年5月28日に「Cubic U」としてNHK-BS2の『真夜中の王国』にテレビ初出演をしている。〕。
1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰〔三宅は、も宇多田のプロデュースを担当している。〕の目にとまり日本デビューを持ち掛けられるが、アメリカでCubic Uとしてソロデビューを控えていたため、当初は戸惑ったものの、三宅の熱心な説得により1998年1月28日に『Precious』を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューすることになった。
1998年12月、宇多田ヒカルとして1作目のシングル「Automatic/time will tell」でデビュー。プロモーションはラジオ出演のみだったがFMラジオや外資系CDショップのプッシュから一気に人気に火がつきデビュー曲はいきなりミリオンセールスを記録。わずか1枚のシングルだけで音楽メディアはもとより一般の週刊誌やワイドショーまでセンセーションを巻き起こした。そして宇多田が15歳で作詞作曲を手がけていることやアメリカで生活していた帰国子女でかつての演歌歌手・藤圭子の娘だということが分かり世間を驚かせた。
1999年1月、自身のホームページにてブログを開始。当時は芸能人のブログ自体が珍しく、宇多田ヒカルがその先駆けになった。3月、1作目のアルバム『First Love』を発売。日本で860万枚以上(オリコンの売り上げデータは765万枚)、日本国外を含めると990万枚以上を出荷し、日本のアルバム歴代チャート1位に輝く〔この記録は現在まで破られていない。〕。この年に帰国し活動拠点を日本に移す。それまでラジオ以外へのメディア露出はほとんどなかったが、同年6月18日の『ミュージックステーション』(26.5%)を皮切りに『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』(28.5%)、『SMAP×SMAP』(33.5%)などのテレビ番組にも出演。いずれも番組最高視聴率を記録〔『SMAP×SMAP』は当時の最高視聴率。〕。
2000年6月、フジテレビの音楽番組『HEY!HEY!HEY!』に出演した際の司会のダウンタウンとの倉木麻衣に関するやりとりが物議を醸す。司会の一人の浜田雅功の「倉木麻衣という宇多田のパクリが出てきている」という発言に対し、最終的には「本人ではなく周囲の人間が悪い」と結論付けたものの、その前段でその場の雰囲気に乗って「テレビを見て自分がいると思った」などと言ってしまった。後にメッセージ上でアーティストとして似ているのではなく事務所やレコード会社の仕事の仕方や境遇が似ているという趣旨を述べたつもりが誤解を与えたと釈明し「浜田さんのあの言い方もひどかったし私も笑いをとろうとするべきじゃなかったね」と謝罪した。
2000年7月、初めての全国ツアー「BOHEMIAN SUMMER 〜宇多田ヒカル Circuit Live 2000〜」を開催〔ツアータイトル名の由来はクイーンの曲ボヘミアン・ラプソディより。〕。7月1日の国立代々木競技場第一体育館を皮切りに全国10か所で開催。徳島公演の際には腰痛でダウンするという緊急事態もあったが名古屋レインボーホール(現:日本ガイシホール)での最終公演の後千葉マリンスタジアム(現:QVCマリンフィールド)で3日間にわたって追加公演を行う。いずれの公演のチケットもプラチナチケットと呼ばれ、電話予約開始から瞬時に完売、ネットオークションなどで高値で出回る。千葉マリンスタジアム3日目の公演ではこの日のためにJam and Lewisが初来日し演奏に参加。“最初で最後の全国ツアー”などとうたわれたが2006年夏に2度目ツアーを開催。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宇多田ヒカル」の詳細全文を読む




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