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孝明 : ミニ英和和英辞書
孝明[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

孝明 ( リダイレクト:孝明天皇 ) : ウィキペディア日本語版
孝明天皇[こうめいてんのう]

孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日1831年7月22日) - 慶応2年12月25日1867年1月30日)は、江戸時代の第121代天皇。在位は弘化3年2月13日1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日)。統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。
== 生涯 ==

天保2年6月14日(1831年7月22日)仁孝天皇の第四皇子として誕生。煕宮(ひろのみや)と命名された。傳役(養育係)は近衛忠煕が就いた。天保6年6月21日(1835年7月16日)、儲君となった。天保6年9月18日、親王宣下により統仁親王となった。天保11年3月14日(1840年4月16日)、立太子の儀が行われ皇太子となった。天保14年(1843年)侍講に中沼了三、門人に西郷従道桐野利秋川村純義千葉貞幹松田重助らを迎え、薩摩藩士との関わりを深める。弘化3年1月26日(1846年2月21日)、仁孝天皇が崩御。2月13日、践祚した。
8月29日、幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌4年3月9日、学習所(学習院)の開講式が行われた。4月25日、石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈った。9月23日、即位の大礼が行われた。同月27日、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代酒井忠義と参賀した。代始の改元は、弘化5年(1848年)2月28日に行われ、元号は嘉永となった。また、侍講の中沼了三学習院儒官に命じた。
嘉永3年(1850年)4月8日に「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じた。嘉永6年(1853年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受けた。嘉永7年(1855年)3月3日、日米和親条約が締結された。同年4月6日、内裏が炎上した。同年11月27日、黒船来航、安政の大地震、内裏炎上と続いたため、元号を安政と改元した。
安政5年(1858年)1月14日、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。1月25日には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず公武一和にて決める「定見なし」であった
太閤鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白九条尚忠(以下、九条関白)は、ともに内覧に任じられ政務の補佐にあたっていた。徳川斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張したが、孝明天皇は容れなかった〔しかし「天皇も自分と同意見」だとして事態を動かす点は危惧していた。前述の下問は朝廷内部の世論を喚起させて鷹司太閤へ対抗しようとした工作との見方がある。〕。1月17日、九条関白へ下した宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。同月25日の宸翰には、堀田老中が上京して演説しようと開市開港は認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと決意を述べている。
2月22日、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許を貰いたいという答書を3月5日に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て3月14日に堀田老中へ下すことになったが、3月12日、88人の公卿が列参という事件を起こし条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した。『孝明天皇紀』では久我建通が3月11日に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳岩倉具視とともに行動に移したとされる。3月20日、堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめ再奏するようにとの沙汰をした。
6月19日、幕府は日米修好通商条約に調印。この条約調印に関する奉書は27日に京都へ着き、朝廷では評議が開かれたが、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白が日記に書いている(九条関白自身はこの会議へ出席しなかった)。翌28日の評議で九条関白に下した宸翰は譲位の意思を示していた。驚愕した一同は関東より御三家、大老井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。7月6日に大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。幕府は7日に井伊大老は多忙のため、御三家の当主は処罰したため上京はできないので酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成し9日に京都へ送った。その一方で7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。7月22日、近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。
8月5日、近衛忠煕、鷹司輔煕一条忠香三条実万に対し、自身が出した「御趣意書」を関東へ送るように命じた。内覧の権限を持つ九条関白が朝議に出なければ勅書は成立しないため、近衛らは九条関白へ交渉し、具体的には8月7日の朝議のため参内を求めた。しかし九条関白は参内をしなかったため、近衛らは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すことを決定した。九条関白は事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。この勅書は戊午の密勅と呼ばれる。9月2日、幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅を出した。9月2日に辞表を受け取り、4日に内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書の偽造が露見したことによる。9月17日に間部老中が上京。水戸藩士の鵜飼吉左衛門鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が捕縛された。10月19日、九条関白の辞表を取り下げ、内覧に任じた。10月25日、徳川家茂将軍宣下が行われた。
10月24日、間部老中が参内したが、孝明天皇は出御しなかった。九条関白らに対して間部老中は無断調印に関し、幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと言い訳(この説明を『孝明天皇記』巻八十九10月24日では分疏とあり、維新史では弁疏とある)をした。11月9日に宸翰で、開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないとする意思を伝えた。間部老中は参内を繰り返し言い訳を続ける一方、皇族や公卿の家臣を逮捕させつづけた。12月24日、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。12月30日、間部老中は帰府の許しを得たが幕府は宮や公卿を処罰する方針を固めていたので、すぐには実現しなかった。
安政6年1月10日、幕府と九条関白からの圧力により、近衛忠煕と鷹司輔煕が辞官落飾、鷹司太閤と三条実万が落飾を奏請した。孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合って貰いたいと宸翰を出したが、2月5日に酒井所司代から九条関白へ伝えられた幕府の内命には四公の辞官落飾だけでなく、青蓮院門跡尊融法親王、一条忠香らへの処分案もあった。その後も2月17日に九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶された。3月28日に辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると、酒井所司代から更に圧力を加えられ、4月22日に落飾の勅許を出した。
8月12日、幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈り、8月15日、九条関白には功労に報いて家禄として千石を加増した。落飾した三条実万は不忠不直の人が恩賞をうけるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、その1か月後に幽居先の一乗寺村で没した。
万延元年(1860年)4月12日、幕府の命を受けた酒井所司代は和宮の将軍家降嫁を奏請した。これに対し5月4日付けで降嫁の願いを拒絶する宸翰を下した。酒井所司代は5月11日に独断で再度奏請したが、5月19日、再び拒絶する宸翰を出した。酒井所司代より報告を受けた幕府は老中連名で再要願書を提出、6月4日に上奏された。観行院の生家・橋本家は、元大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)の説得をうけた。孝明天皇は鎖国と攘夷実行の条件を付けての承知の意を示した。
7月4日、幕府は降嫁について三度目の奏請したが、具体的に鎖国攘夷実行の誓約を含まなかったため却下された。7月29日、酒井所司代は幕府の修正奏請を出し、今後七八カ年ないし十カ年の中で、その時の情勢に応じて応接を以て引き戻し(条約を破棄する)か、干戈を振って征討を加える(外国を撃攘する)かをとると誓約した。これにより孝明天皇は勅許を決断したが、当の和宮は繰り返しの説諭にも折れず降嫁を拒否した。8月15日に和宮はついに降嫁を受諾し、11月15日に江戸城に入った。
正親町三条実愛を通して建白された長州藩長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、文久元年(1861年)6月2日、長州藩主毛利敬親は御製の和歌を賜った。
同年11月、薩摩藩島津久光島津茂久近衛忠房を通じて家来の中山実善を京都へ派遣し上京のために勅命を求めてくるが、容れることは無かった。しかし、12月に御製の和歌を下した。
文久3年(1863年)3月に家茂が上洛してきたときは、攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社石清水八幡宮に行幸した。
もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在する。孝明天皇は文久3年(1863年)4月22日付の中川宮宛の書簡で、4月10日の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白〔『孝明天皇紀』巻四P592〕し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている〔『孝明天皇紀』巻四P845-846〕。
その後、幕府・一会桑薩摩藩長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。
慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった。
このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出するようになる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言〔慶応元年9月23日付書簡『大久保利通文書』巻一P311〕し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよと記している〔『岩倉具視文書』巻一P264〕。こうした中で慶応2年(1866年)8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている〔『孝明天皇紀』巻四P893〕。
慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして崩御。宝算36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、他殺説も存在し議論となっている(下記参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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