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外商 : ミニ英和和英辞書
外商[がいしょう]
【名詞】 1. foreign businessman 2. out-of-store sales
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: [そと, ほか, げ, がい]
 【名詞】 1. other place 2. the rest 
外商 : [がいしょう]
 【名詞】 1. foreign businessman 2. out-of-store sales
: [しょう]
  1. (n,n-suf) quotient 
外商 ( リダイレクト:日本の百貨店#外商 ) : ウィキペディア日本語版
日本の百貨店[がいしょう]

日本百貨店(にほんのひゃっかてん)では、「一つの事業者が複数の分野にわたる多種類の商品を一つの店舗で扱う大規模な小売店舗で、セルフサービス方式の売り場が50%以下のもの」を指し、英語の、フランス語の、ドイツ語のがこれに相当する〔「英のDepartmentStore-仏のGrands magasins-独のWarenhaus(od.Grossmagazin)」の様な商業組織の制度を「大商店制度」(又は「大店舗制度」-Magazinsystem)と云う 小売商業の革新(其二) 神戸高等商業学校講師坂西由蔵「商業界」1905年〕。''、フランス語の、ドイツ語のがこれに相当する〔「英のDepartmentStore-仏のGrands magasins-独のWarenhaus(od.Grossmagazin)」の様な商業組織の制度を「大商店制度」(又は「大店舗制度」-Magazinsystem)と云う 小売商業の革新(其二) 神戸高等商業学校講師坂西由蔵「商業界」1905年〕。''、ドイツ語のがこれに相当する〔「英のDepartmentStore-仏のGrands magasins-独のWarenhaus(od.Grossmagazin)」の様な商業組織の制度を「大商店制度」(又は「大店舗制度」-Magazinsystem)と云う 小売商業の革新(其二) 神戸高等商業学校講師坂西由蔵「商業界」1905年〕。''がこれに相当する〔「英のDepartmentStore-仏のGrands magasins-独のWarenhaus(od.Grossmagazin)」の様な商業組織の制度を「大商店制度」(又は「大店舗制度」-Magazinsystem)と云う 小売商業の革新(其二) 神戸高等商業学校講師坂西由蔵「商業界」1905年〕。
== 歴史 ==

=== デパートの誕生 ===

合名会社三井呉服店(現在の三越)が1904年明治37年)12月20日前後に顧客や取引先に三井三越の連名であいさつ状を発送〔1904年12月20日顧客らに送った書状。のちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれるこの文書「米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現致すべく候」翌日の12月21日、三越呉服店は日本初のデパートとして営業を開始した。「あの日から 日本経済の転機」 1904年12月20日 デパートメントストア宣言 近代百貨店の産声 東京新聞2007年平成19年)12月19日〕。株式会社三越呉服店を設立し三井呉服店の営業をすべて引き継いだことを案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候」〔企業情報 歴史|三越 〕とし、1905年明治37年)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載した。のちに「デパートメントストア宣言」〔と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとするのが一般的である。
しかし、実際の動きはもう少し早く始まっており、百貨店の特質のひとつである「陳列式」で見ると1895年(明治28年)11月に三井呉服店の土蔵造り2階の大広間を打ち抜き「陳列場」として「座売り」を廃止しのを皮切りに、翌年の1896年(明治29年)には高島屋の京都南店で「陳列式」のひとつでもあるショーウィンドウを設置している〔「高島屋百五十年史」 1982年〕。
さらに1900年(明治33年)10月に三井呉服店が「座売り」を全廃し全館を「陳列場」へ切り替え開場している。1903年(明治36年)には白木屋も和洋折衷の3階建ての洋館を建設し「座売り」の廃止と「陳列式」への全面的な切替を行うと同時にショーウィンドウや食堂を設置している。
三越呉服店による「デパートメントストア宣言」の後には、松坂屋の前身の「いとう呉服店」も1905年(明治38年)に名古屋店で「座売り」の廃止と「陳列式」への切替え、1907年(明治40年)4月1日には東京の上野店でも「座売り」の廃止と「陳列式」への全面的な切替を行うと同時にショーウィンドウの導入、そして雑貨、家庭用品などへの品揃えの拡充など百貨店化を進めた〔松坂屋「ひと・こと・もの」語り(ウェブサイト )〕他、同年高島屋も大阪店を洋風2階建に改装して「陳列式」を一部導入する〔「高島屋百五十年史」 1982年〕など、この百貨店化への動きは各地で行われている。
呉服店の改装に留まらない近代的な洋館を建設して本格的な百貨店を開設する動きとしては、1903年(明治36年)の白木屋が和洋折衷でショーウィンドウや食堂のある店舗を造ったのをはじめ、1907年(明治40年)に松屋が神田今川橋に洋風3階建ての店舗を建設。1908年(明治41年)4月三越が6年後に完成予定の本格的な近代百貨店へと建て替えるため、日本橋の本店横に38mにも及ぶショーウィンドウなど豪華な装飾を施した木造3階建ての仮店舗をオープンさせる。松坂屋は1910年(明治43年)3月鈴木禎次設計で名古屋に屋上にドームをもつ3階建てルネサンス風の洋館にホール・食堂などの最新設備を備えた百貨店を開業〔松坂屋「ひと・こと・もの」語り 1912年(明治45年)に大丸京都店が鉄筋木造3階建の建物で百貨店化し開業〔「大丸二百五拾年史」 大丸250年史編集委員会編 1967年〕。
1914年大正3年)になると三越呉服店でルネッサンス様式の新館が落成。鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、建築史上に残る傑作といわれた。日本初のエスカレーターと、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が備えられた。屋上庭園、茶室、音楽堂などもあり、正面玄関にはロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルの「ライオン像」を設置。三越がハロッズから学んで豪華な建築にしたのは、ハロッズの責任者が「わびしい店に客が来ると思いますか。店内を豪華にし、客を豊かな気分にさせることに使う資金こそ、生きた資本です」と日比翁助に述べたからとされる〔「その時歴史が動いた 第34巻」 NHK取材班・編 中央出版 ISBN 4-87758-347-5〕。1916年そして(大正5年)の札幌の今井百貨店(現丸井今井)〔札幌丸井三越 | 企業概要(ウェブサイト )〕や鹿児島の山形屋の百貨店開店〔山形屋|沿革(ウェブサイト )〕など明治末から大正にかけて、日本全国各地で呉服店などを前身に持つ百貨店の開店がみられた。
その後、各百貨店が競って豪華で近代的な建物を使用して人目を引いて集客を図り〔「店舗の設備を華麗にし人目を驚かし以て顧客を招く」 「デパートメント、ストア」に就て 東京法科大学河津教授(読み判らない漢字のため、氏のみ記述) 国民経済雑誌1907)〕、江戸時代からの呉服に加えて海外から美術工芸品や輸入した舶来品なども扱ったため高級感を持たれ、他所行きの着物を着て、お洒落をしてショッピングを楽しむ、「格式の高い場所」となっていく。〕〔白土健、青井なつき『なぜ、子どもたちは遊園地に行かなくなったのか?』創成社、2008年5月〕
しかし京都法科大学教授の戸田海市東京法科大学教授の河津、桑谷克堂らが述べているように百貨店は「よそよりも一銭でも高いものがあればお知らせ下さい。粗品を差し上げます。」という新聞広告を打った〔「(1930年ごろには)競争が激しくて、先ほどのように、特徴ある商品、大丸として品位のある商品を取り扱う方針に従って努力しました。また、大丸はよそよりも高いものは売らない。「よそよりも一銭でも高いものがあればお知らせ下さい。粗品を差し上げます。」ということを新聞に発表した」 井狩弥治郎副社長、1960年15巻132号〕大丸が掲げた「どこよりも良い品をどこよりも安く」〔「戦前に使用していた「どこよりも良い品をどこよりも安く」の標語を高らかに掲げて進みたいと思う。」 北沢敬二郎副社長、大丸社内報1950年5巻31号〕に代表されるように比較的安く売ることにより大量販売する〔「廉売を以て大量に販売し所謂数でこなす」 百貨店に就て(其一) 京都法科大学教授戸田海市 国民経済雑誌1907)〕〔「消費者に比較的廉売便利に貨物を供給する」 「デパートメント、ストア」に就て 東京法科大学河津教授(読み判らない漢字のため、氏のみ記述) 国民経済雑誌1907)〕〔「デパートメントストア」という用語を用いて「商業界」の巻頭言で「本当に大安売りを実行して繁盛を独りで占めしようといふには何か新規の営業法を工夫するより他に仕方がない」その営業法を工夫し、本当に大安売りを実行し始めた存在こそがデパートメントストアだとしている。 巻頭言「商業経営の最新方式」「商業界」第3巻第4号 1905年〕もので、大規模な店舗で幅広い商品を扱いいわゆるワンストップショッピングを可能としていたこと〔「集注的な大経営を行ひ、あらゆる種類の商品を一同の下に買い整ふることをせしむる制度」神戸高等商業学校講師坂西由蔵 小売商業の革新「商業界」1905〕〔「大規模の小売商業にして商品取り扱い上若しくは消費の目的上必ずしも密接の関係を有せざる多種類の商品を取り扱うもの」 京都法科大学教授戸田海市 百貨店に就て(其一) 国民経済雑誌第7巻第5号1909年〕もあり、比較的低価格な美術工芸品の販売が行われていることや購入品を無料で配送していること、定価(正札)で現金販売であること等と合わせて中流以下の庶民に広く受け入れられ〔百貨店が消費者にもたらす便益として商品が自由に眺められること、正札をつけていること、廉価であること、ワンストップショッピングが可能であること、現金払いによって消費経済の健全な発達を促進していること、低廉な美術工芸品が陳列販売されているので、中流以下の庶民の趣味嗜好を発達させること、購入品を無料で配送していることを上げて、今日ではその存在価値を疑うべき余地なし…としている。 京都法科大学教授戸田海市(百貨店に就て(其二)国民経済雑誌1909年〕、急速に売上を伸ばすことに成功した。
1930年昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけての1年間の東京市内における売上で見ると6万の小売業者のうち18しかない百貨店が織物被服類の売上総額の69%、小間物用品類では 59% を百貨店が占める〔昭和5年から6年にかけての1年間の東京市内における百貨店対小売商人物品販売高を、商工省と東京市が共同で調査したところ、数の上では個人小売業者が6万、百貨店は18(同じ百貨店の本支店は1と数える。)であるのに対し、織物被服類の売上総額の69%、小間物用品類では 59% を百貨店が占めていた「呉服類の七割百貨店独占 小売店が浮ばれぬも道理」『読売新聞』1932年(昭和7年)8月30日〕ほど急速に売上が伸びたため、大正時代後期になると中小小売業から営業規制を求める声が上がり、1938年(昭和13年)12月に最初の百貨店法が制定されることなった(後に太平洋戦争により百貨店が立ち行かなくなり有名無実化し、GHQの意向もあり1947年(昭和22年)に廃止される)〔『わが国クレジットの半世紀』社団法人日本クレジット産業協会1992年12月〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「日本の百貨店」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Department stores in Japan 」があります。

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