翻訳と辞書
Words near each other
・ 品川女子学院
・ 品川女子学院中等部
・ 品川女子学院中等部・高等部
・ 品川女子学院高等学校
・ 品川女子学院高等部
・ 品川妙国寺
・ 品川孝子
・ 品川孝次
・ 品川客車区
・ 品川家
品川宿
・ 品川寺
・ 品川将員
・ 品川小学校
・ 品川工業所
・ 品川市
・ 品川庄司
・ 品川庄治
・ 品川弥二郎
・ 品川彌二郎


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

品川宿 : ミニ英和和英辞書
品川宿[しながわしゅく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひん]
 【名詞】 1. thing 2. article 3. goods 4. dignity 5. article (goods) 6. counter for meal courses 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
宿 : [やど]
 【名詞】 1. inn 2. lodging 

品川宿 : ウィキペディア日本語版
品川宿[しながわしゅく]

品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道板橋宿甲州街道内藤新宿日光街道奥州街道千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。

== 概要 ==
慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)といった(現在の北品川本通り商店街から品川区北品川2-2-14の法善寺辺りまで〔しながわ観光協会〕)。歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられた〔。
品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いという〔: 品川宿と千住宿の比較研究 末吉恵・菊地俊夫,首都大学東京 『観光科学研究(2)』. 2009-03-30〕。
古典落語の廓噺(居残り佐平次品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていたことが覗われる。1772年、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。1843年ころの記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄した〔。1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙している〔『百万都市江戸の生活』p42(北原進著)角川選書〕。その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。
1872年(明治5年)の宿駅制の廃止と鉄道の開通によって宿場町としての機能は失われたが、北品川では多くの遊郭が営業を続けたことから関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域の低地には、地価の安さや水運・用水の便から大規模工場が立地、その周辺の南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並んだ〔。旧品川宿地域は第二次世界大戦の戦災をほとんど受けなかったため、戦後も北品川の遊郭は営業を続けたが、売春禁止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成された〔。一方、南品川では1970 年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続き、その従業員らを相手にしていた商店街が衰退した〔。その後、近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残される形となったが、反面、宿場町特有の歴史的資源が維持され、1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織され、歴史的景観を生かした町の活性化が計られている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「品川宿」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.