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北槎聞略 : ミニ英和和英辞書
北槎聞略[ほくさぶんりゃく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [りゃく]
  1. (n,n-suf,vs) abbreviation 2. omission 

北槎聞略 : ウィキペディア日本語版
北槎聞略[ほくさぶんりゃく]
北槎聞略(ほくさぶんりゃく)は、桂川甫周大黒屋光太夫らから聴取した内容などをもとに著した地誌。寛政6年(1794年)成立。本文11巻・付録1巻・衣類器什図等2軸・地図10葉から成る。
== 内容 ==
天明2年(1782年)12月、駿河沖で遭難した伊勢国の神昌丸乗組員17名が、約8ヶ月の漂流の末、船内で死亡した1名を除く16名が当時ロシア帝国の属領となっていたアリューシャン列島アムチトカ島(アミシヤツカと表記・以下カッコ内は北槎聞略内の表記)に漂着、厳しい冬で仲間を次々と失いながらも4年後に現地のロシア人たちと協力して船を手作りしカムチャツカ(カムシヤツカ)に渡る。翌年同地を出発し、オホーツク(ヲホツカ)、ヤクーツク(ヤコツカ)を経由し、寛政元年(1789年イルクーツク(イルコツカ)に到着。船頭光太夫は日本帰国の許しを得るため、キリル・ラクスマン(ラックスマン)の協力を得て、モスクワ(ムスクワとも記す)経由で帝都ペテルブルグ(ペートルボルグ)に向かう。、当時のロシア女帝エカチェリーナ2世(ヱカテリナ)に拝謁、9ヵ月のペテルブルク滞在後、帰化した2名や死者を除いた3名が遣日使節アダム・ラクスマンと共に帰国の途に着き、寛政4年(1792年)9月根室に到着する。根室で死亡した1名を除く光太夫と磯吉の2名は江戸に渡り、翌1793年9月18日、吹上御苑にて将軍に拝謁、ロシアから持ち帰った品を献上する。
幕府の医官で蘭学者桂川甫周は、光太夫と磯吉に諮問し、その答えとドイツ人のによって記された世界地理書のオランダ語訳である「Algemeen Geographie」(『ゼヲガラヒ』と表記)のロシアについての記述などを参照しながら、その見聞体験を収録した。記載内容の中には、漂流やロシア帝国内の移動の苦労や厳しい冬、仲間を厳しい寒さなどで次々に失う様子、ロシアの多くの人々との出会い、皇帝への謁見、日本帰国等の「漂流記」からロシアの風俗、衣服、文字、什器類、民族等の「博物誌」相当記事、ロシアで訪問した諸施設や諸貴族の館の様子といった「見聞録」相当記事など、幅広い記述に満ちている。見聞録の中には孤児院(幼院)に赤ちゃんポストが備えられている様子やその運用方法、ペテルブルクの高級な政府公認の遊郭(娼家)で客である光太夫が娼婦らから、訪問のたびに逆に金品を贈られる様子など、興味深い記述も多い。
光太夫・磯吉は高等教育を受けていない船頭・水夫であるが、収録・記憶した事項は多種多様であり、記憶違い等に起因する明らかな間違いなども桂川甫周ができる限り注釈をいれて補正し、桂川の知識を超える事象についてはその旨を記している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北槎聞略」の詳細全文を読む




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