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北大路魯山人 : ミニ英和和英辞書
北大路魯山人[きたおおじ ろさんじん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
北大 : [ほくだい]
 (n) (abbr) Hokkaido University
大路 : [おおじ]
 【名詞】 1. main street 
: [ろ]
 【名詞】 1. road 2. street 3. path
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
山人 : [やまびと, さんじん, やまうど, やまんど, やまど]
 【名詞】 1. mountain folk 2. hermit
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

北大路魯山人 : ウィキペディア日本語版
北大路魯山人[きたおおじ ろさんじん]

北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、ろざんじん・ろさんにん、1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。
晩年まで、篆刻家画家陶芸家書道家漆芸家料理家美食家などの様々な顔を持っていた。
== 略歴 ==
1883年(明治16年)、両親は京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社社家・北大路清操(きよあや/せいそう)、登女(とめ、社家・西池家の出身)の次男として生まれる。氏族の家柄だったものの生活は貧しく、その上版籍奉還2年後の明治4年に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にあった。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に自殺する。母・登女は坂本(現・大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪する。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰る〔5回ほど預けては連れて帰るを繰り返した説もある。〕。出生から5ヶ月後の明治16年9月6日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる。しかしこの2ヶ月前の7月2日に服部巡査が行方不明になる。同年秋に巡査妻が病死し、この2人の養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる。〔『知られざる魯山人』文藝春秋 2007年 山田和 〕
3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、房次郎に永遠の記憶を残す「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を見る。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したという。〔
そのころ義兄に精神異常が出てその後死亡。1887年頃房次郎4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる。この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受ける。2、3ヶ月後、これを見かねた近所の人が竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかける。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から炊事を買って出る。炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいく。〔
10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳であった。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められた。〔
1896年1月奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込むが家計的な問題もあり断念。養父の木版の手伝い始め扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていく。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中からな点の位1枚・地の位1枚・佳作1枚受賞する。以後彼は応募を続け次々と受賞していく。14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める。このころ西洋看板描きとしても活躍する。〔
20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れる。彼により母の所在を知る。実の母の居所が分かり会い東京に行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志す。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。若干21歳の受賞は前代未聞の快挙であった。この展覧会では福田海砂(かいさ)と号した(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後住み込みで版下書きの仕事を始める。この頃実母登女との関係も良くなっていく。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家・岡本一平の父、洋画家・岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込む。そこでは福田可逸(かいつ)の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていく。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになる。1907年、福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する。翌年2月17日、結婚。その年の夏に長男が誕生。仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。
1910年12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届けた朝鮮内を旅し3ヶ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活する。1911年3月日本に残した妻に第二子が誕生。京城滞在1年弱で上海に向かい書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う。1912年夏に帰国。書道教室を開く。半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は福田大観(たいかん)の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。1914年2度目の離婚。
1916年、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗る。そして北大路魯山人の号を使いはじめる(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていった。1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂・美食倶楽部を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり〔5回ほど預けては連れて帰るを繰り返した説もあ
る。〕、会員制高級料亭を始めた。
1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。
戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソマルク・シャガールを訪問。1955年(昭和30年)には織部焼重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。
1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変〔肝吸虫は、魯山人の好んだタニシから寄生したとする論説もあるが、肝吸虫の第一中間宿主となるマメタニシは人間の食用にならず、なおかつヒトへの感染は第二中間宿主のコイ科魚類の生食から起こることから、別の感染経路と推定されている。〕のため横浜医科大学病院で死去。
1998年(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北大路魯山人」の詳細全文を読む




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