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佐久間信盛 : ミニ英和和英辞書
佐久間信盛[さくま のぶもり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [けん, ま]
 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

佐久間信盛 : ウィキペディア日本語版
佐久間信盛[さくま のぶもり]

佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。佐久間氏の当主。通称は出羽介右衛門尉。子に信栄信実。従兄弟に佐久間盛次佐久間盛政佐久間安政柴田勝政佐久間勝之の父)がいる。
== 生涯 ==
尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれ、若い頃から織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時守山城に置く際に城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。
信長に従って各地を転戦し、織田家の主だった合戦には全て参戦した。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備し、戦後に鳴海城を与えられた。永禄11年(1568年)の近江国六角義賢義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげ、長島一向一揆越前一向一揆戦でも活躍した。
吏僚としての活動も見られ、永禄10年(1567年)に徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任され、永禄11年の上洛後に畿内の行政担当者の1人に選ばれ、大和国松永久秀を交渉で味方に付けている。浅井長政が信長に敵対した後は近江永原城に配置され柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い志賀の陣にも出陣している。比叡山焼き討ちで武功を上げ元亀2年(1571年)11月には知行地として近江国栗太郡を与えられている。同年に松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させている。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、平手汎秀水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に赴くも、信盛は27,000の武田信玄軍を目の当たりにして、ほとんど戦わずして、三河尾張の境目にある境川付近の今切まで退却した。
天正元年(1573年)8月の一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。その際信盛は涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と弁明し、信長の怒りに油を注いだ(『信長公記』)。同年11月には足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を信長の命令で討伐した(若江城の戦い)。天正3年(1575年)の高屋城の戦い長篠の戦いにも出陣している。
天正4年(1576年)には石山合戦の一環であった天王寺の戦い石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政の戦死を受け、後任として対本願寺戦の指揮官に就任。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉紀伊といった7ヶ国の与力をつけられた信盛配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であったが、信盛は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着した。この間にも天正5年(1577年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。天正8年(1580年)、信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、10年続いた戦に終止符を打った。この時点まで信盛は近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括し、信長相続前からの古参であることもあわせ、作家の津本陽いわく「織田株式会社の副社長」ともいうべき位置にあった。
同年8月、信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられた信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。なお、この最後まで付き従った者は、後に信栄が赦されて帰参が叶った時、その忠誠心を賞されて小者の身分から士分に抜擢されたという。『信長公記』はこの間の佐久間父子の凋落をあわれみをもって記している。信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率することになったのは明智光秀であり、この事件は本能寺の変に心理面、軍事面、さまざまな影響を与えている。
なお、佐久間家は信長に身ひとつで仕え始めた羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益らとは違って、元から尾張に勢力を持つ土豪であり、独自の判断で守護代の分家にすぎなかった織田信秀につき従ってきた、いわば盟主と傘下協力者に近い(徳川家酒井家のような)関係にあった。それがこの時期には、一言で全領地を召し上げられても文句がいえないような絶対君主と臣下の関係になってしまっており、武家社会が決定的に変質したことが窺える。また、羽柴、明智のように本拠地としての城や領国を与えられず近衛軍団長のような立場であったため、佐久間には反乱する足場もなかった。
天正10年(1582年)1月16日、紀伊熊野にて死去〔した。享年55。法名は洞無桂巌または宗佑。直後に信栄は織田信忠付の家臣として帰参を許された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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